もっちゃん

ドッグヴィルのもっちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

ドッグヴィル(2003年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

これがラース監督から見えたアメリカの姿だったのだろう。劇のようにも見えるし、一冊の小説を読んだような感覚も抱く。

小さな閉鎖的社会の中で人間がいかに弱い存在であるかを暴き出す思考実験映画。さらに社会階層の移動による支配層と非支配層の再生産をも描く。非常に意欲的な作品で個人的にはラース作品で1、2を争うほど好き。

まずは社会の凶暴さについて。非常に閉鎖的な村「ドッグヴィル」に突如として現れた「ギフト」グレースははじめ彼らから信用されず、村の中で居場所がなかった。彼女は居場所を得るために過剰な労働条件を申し入れるが、村の人間は誰もまとも受け入れようとしない。これが最初の段階「排除」である。

しかし、彼女の献身的な態度が効を奏して徐々に村に受け入れられていく。村人は彼女を積極的に行事に招き、家族のようにもてなすようになる。彼女自身もすっかり村人に心を許すようになる。これが次の段階「包摂」である。

だが、「包摂」の段階に入った村人たちは次に彼女に自らの心の弱みをさらけ出したり、労働条件をエスカレートさせていったりする。最初は彼女のことを拒絶していた村人たちはむしろ彼女をあの手この手で村につなぎとめようとするのだ。村は「過剰な包摂」段階にまで入り、最終的には自らの利益のために用済みとなった彼女を「排除」する。
「排除」と「包摂」の間で揺れ動く村社会の様子は実に興味深い。さらに閉鎖的な社会が村人の理性を鈍らせ、凶暴性をあらわにさせた。村人たちの誰か一人でも他社会との確固としたパイプがあればこれほど事態は発展しなかっただろう(誰も事態の異常さに気づけなかったのだ)。

続いて社会階層移動について。ラストの展開でグレースが犯罪者などではなく、ギャングのボスの娘であることが分かる。つまり彼女はドッグ(犬、ここでは貧しい人々・非支配層のことを指す)ヴィルの人間たちとは正反対の階層の人間であったということだ。
ギャングである父の傲慢さを嫌うグレースは父の持論に反発し、彼ら(村人たち)が悪いのではなく、環境がそうさせているのだと説き、脱走する。しかし、村での一連の出来事によって彼女の考えは修正を迫られる。「彼らを更生させるべき」という彼女の言葉は父の説く「規範」による支配を意味している。
だが、この言葉はグレース自身の汚れ(肉体的にも思想的にも)を浄化するためのものでもある。いずれにしろ社会階層移動によってグレースの高尚な倫理観はいとも簡単にひっくり返ってしまった。支配層と非支配層という構図はこれほど強固なものなのかと虚しさすら覚える。

ラース監督の目に映ったアメリカはこれほど過酷なものだったのだろう。エンドロールのショッキングなフォトの連続がそれを物語る。貧富の差はくっきりと区別され、それは覆ることなく再生産される。アメリカのダークサイドを特異な方法で表現した怪作。