青山祐介

チャーリング・クロス街84番地の青山祐介のレビュー・感想・評価

4.5
『みなさん、私たちは間違っていたのです。人々がおたがいに意思を疎通することなんかできないと信じているのは、孤独と同様、妄想にすぎないのです』
ヘーレン・ハンフ「チャリング・クロス街84番地その後」リーダーズ・ダイジェスト日本語版1971年10月号より

ヘレーン・ハンフは幼少のころから孤独だったのですね。意地ぱっりで、頑固で、癇癪持ち、それでいて率直な愛すべきヘレーンは、他人と心から意思を通じ合うことはできないと信じていたのです。英国古典文学に憧れたヘレーンは奨学金を得て一年だけ大学に通います。だがお金のせいでしょうか、卒業することはできませんでした。その後ケンブリッジ大学の批評家・古典学教授アーサー・クイラー=クーチ(往復書簡集ではQとして登場)に心酔し独学で勉強します。そのためでしょうか「架空の人物の身に起こった出来事になんか、全然興味」がもてず、現代文学は嫌いで「本に関しては妙な好みがあるだけ」と手紙に書いています。チャールズ・ラムの「エリア随筆」を読み、甘ったるい詩を書いているキーツやシェリーはお気に召さない。ジョン・ダンを崇拝し、ヘンリー・ニューマン「大学論」の初版本に興奮し、サミュエル・ピープスの日記、ジョージ・オーエルの随筆、アイザック・ウォールトンの伝記集、ジェフリー・チョーサーの随想録、サン=シモン回想録を好みます。ヘレーンは「架空の作り話」で孤独を紛らわすことはありませんでした。
でもヘレーンの現実の暮らしは、
売れない児童文学書やエラリー・クイーンの冒険のテレビドラマの脚本を書く貧乏作家でした。憧れのロンドンに行くお金もありません。ふとしたことからチャリング・クロス街の古書専門店フランク・ドエルとの文通がはじまり、ヘレーンの「妄想=孤独」は書物を介した「交流=親愛」に変わります。ドエルと古書店から贈られた総金縁の「エリザベス朝時代の名詩選」に、女性らしい悦びの表情をうかべ、「物語嫌い」のヘレーンが、オースティンの「自負と偏見」に夢中になるのも、フランク・ドエルとのいきいきとした文通が齎した心の変容なのでしょうか。
この映画の魅力は(原作の往復書簡集では勿論のこと) 英国古典文学作品が溢れていることです。ピープスの日記の「哀れな抜粋」に憤激し、敬愛するジョン・ダンの「説教集」が抄録であり、その杜撰な編集に怒りをぶつけます。アン・バンクロフトが、タイプライターを激しく打刻したあと、「説教集」を朗読する場面があります。ヘレーンの書物への渇望と愛を表現します。それは演技を超越しています。この朗読は往復書簡集にはないものですが、脚本のヒュー・ホイットモアが選んだものでしょう。ホイットモアはロンドン王立演劇学校出身の劇作家です。英国崇拝家のヘレーン・ハンフ、英国出身の監督デヴィッド・ジョーンズ、同じく英国出身のアンソニー・ホプキンズ、これは書物愛の映画であると共に英国愛の物語なのです。
『人類は一巻の書物である。一人が死ぬ時、一章が失われるのでなく、よりよい言葉に変容する。どの章も変容せねばならない。神は変容の道具として、時には年齢を、時には病気をお使いになる。また時には戦争を、刑罰をお使いになる。だが神の手で再び一巻の書物にそして天の図書館に並べられる。開いたままで』
ジョン・ダン「説教集」
ヘレーン・ハンフと同じニューヨーク出身のアン・バンクロフトが『フランキー、やっと来たわ』と言ってうかべる美しく悲しい微笑におもわず泪が溢れました。素晴らしい映画です。
青山祐介

青山祐介