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たぶん悪魔がのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

たぶん悪魔が(1977年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

“I thought that I heard you laughing. I thought that I heard you sing. I think I thought I saw you try(あなたが笑うのを聞いた気がした。あなたが歌うのを聞いた気がした。あなたがそうしようとしているのを見た気がしたのだ)”
R.E.M.の「Losing My Religion」の一節である。これはまさに今作みたいなことを歌ってたのではないだろうか。何かが不意に聞こえた、まるでこちらの行動に呼応するように。それはブレッソンの作風の一つである付与された音の配置として示される。あのバスの急停車が、直前に発せられた「(世界の裏で糸を引くのは)たぶん悪魔だろう」という言葉に呼応したように(あの急停車のけたたましいさの原因が事故かどうかは映像で示されていない)。また教会内で神についての講義(?)の際に、ある発言者をまるで咎めるかのようにパイプオルガンの音が鳴り響く。神のような、悪魔のような、何かが啓示を示したり貶めようとしている気がする。あまりにもリアリズムな演出にも関わらず、だからこそ訪れる偶然が奇妙に浮かび上がる。

 ただ、今作が「たぶん悪魔が」という仮定法と言い切れなさで題されているとおり、神の存在や悪魔の存在という確証は持てない。この中途半端さがラストの死にも言えて、あまりにも現実的という意味で中庸である。あの死のあり方は今まで誰も示してなかったのではないだろうか。自殺と殺人の間、生も死も嫌悪した果ての結果としての狭間。不意にゴダールの自殺幇助のニュースを思い出す。死にたいが、その手を下すのを人に委ねるという点で、似ているように思えた。「気狂いピエロ」のあっけなさ故の滑稽さも無い冷酷な死。ブレッソンからゴダールへの返答なのか。まるでヌーヴェルバーグから熱気をここぞとばかりに削いだかのような。ゴダールはそれへの返答を意図せずだとは思うが自身の身を持って体現したかのように思えてならない。

 しかし、主人公が本当に本心から自殺したかったわけではなさそうだ。セラピストにとりあえず精神面の問題として片付けられ、「死にたくない」と言う主人公に対し「死にたいのだよ君は」と規定される。思想なのか精神や性格の状態なのか。それともある思想は抱くだけで病気となるのか。ここで金銭的なやり取りが出るのも、セラピストの言葉をどこまでも上っ面なものに仕立て上げている。

 耳の受難性。今までのブレッソンの作風に一貫していた音の役割をやっと理解した気がする。ゴダールもちょくちょく映画は受難であると言っている。映画館では視覚の能動性は失われ、与えられる側になるがそれ以前に受動的であるのが聴覚だろう。耳は音を拒めない、圧倒的な受動性を持つことで、啓示が一番起きやすい器官なのではないだろうか。では視覚はというと。人物の距離がポートレート的な手触りをギリ感じるような近しさではある。しかし決して触れ得ない絶対的な距離もまたあり。またカメラは手元や足元などを映すせいか俯瞰めが多く、それは頭を悩ます陰鬱さをトーンとして保つかのようであった。手や足は乖離して”たぶん悪魔が”するかのような個の喪失と意図に翻弄される何かに思えた。時折意思より先に動く手足は、まさしく悪魔的であるのかもしれない。前回見た「湖のランスロ」は聖杯に振り回され、今作は金に振り回されと、たかがそんなものが人間よりずっと支配的である。その聖杯や金を我々を縛り付ける何か別のもので代入するも可だろう(総称して悪魔と言えるか)。そうなると手足は悪魔の奴隷か。

 破壊を標榜する集会、教会での欺瞞、本のやりとり、所々細部は難しかった(ほんとに大学の講義みたいだ)。ニュース映像分析、映写機の光はりんごを映し出し、明滅するりんごはさながら知恵の実か。テレビが仏頂面で映し出す核実験の映像、投射する映画に比べて幾分我が物顔なテレビの傲慢さは爆音を持ってしてより際立っている。抱き合う二人のシルエットをかき乱す交通量と、空っぽのコーラの瓶とともにベットになだれ込む二人。愛はもはや社会のノイズ(特に大量消費社会)なしに成立しない。あるカオスの話題の後、銃を手にした主人公は川に発砲する。それはまるでカオスに銃弾を飲み込まれ、何もできない無力感のようではないだうか。

 「この瞬間崇高な考えが閃く、知りたいか….」の台詞に間髪入れず放たれる銃弾の衝撃。主人公の死体はしかし妙に美しく、いや元々美男子ではあったものの、まるで芸術品のようであった。小津の「東京暮色」での明子の死に顔とは思えない無傷な美しさを思い出す。というかブレッソンと小津は演技法やショットのあり方が近いような。

 映画館を出て、襲いかかる音がそれぞれどこからどんな風にくるかが鋭敏にわかった。時と共に慣れてその感覚は消えたものの、これはブレッソン映画体験だからこそだなぁと思った。

 ここまで書いといてなんだが、ブレッソンへ若干の苦手意識が実はある。フェリーニ好きな自分にとって、生も死も生臭い臭気が無いとあまり楽しめないのかもしれない(ブレッソンを"楽しむ"という表現もまぁ違うのだろうけど)。フェリーニは臭気マシマシなのである、だから真逆に見える。しかし、反対だからこそ何かの軸を共通して持っていて、それの捉え方が両者違うだけのようにも思える。例えば「カサノバ」の最初の女神像の沈没が、神も見て見ぬ振りをするというような意味合いを表すのに対し、今作の教会のシーンでオルガンが茶々を入れたあれもまた神の意思の現れに感じる。どちらも傍観や口出しという神の干渉がある。逆にフェリーニの遺作「ボイス・オブ・ムーン」ではみんながもっと静かにしたら月の声も聞こえるのにみたいな、ブレッソンの静謐さに近いような言葉を残している。啓示をことごとく理解できないというのが、両者の共通点な気がする(「甘い生活」のラストの打ち上げられた怪魚の無意味さ、対岸にいる少女の言葉の聞こえなさ)。それでもいいんだとするか、それでいいのかと問うのかで両者は意見が分かれているような気がする。
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