かなり悪いオヤジ

オペラハットのかなり悪いオヤジのレビュー・感想・評価

オペラハット(1936年製作の映画)
4.5
邦題タイトルを不思議に思った方も多かったのではないでしょうか。原作小説の中核をなしていた、オペラにおける高尚な芸術文化的要素(ハットの山を高くした状態)と大衆文化的要素(ハットを折り畳んだ状態)を融合(オペラハット)させようとディーズ氏が奮闘努力するくだりが、本映画ではばっさりカットされているからではないでしょうか。小説の中では、補助金の恩恵から抜け出せないぬるま湯に浸かったオペラ運営委員会に対して、ディーズ氏が抜本的改革を促す様子が詳細に描かれているそうなのです。

その代わりに、2度目のオスカー受賞作となったキャプラの映画化作品では、ルーズベルトのニューディール政策の犠牲者である貧しい農民たちを救うため、叔父から相続した僕大な遺産を放棄する、ディーズ氏(ゲーリー・クーパー)の“ポピュリズム”的側面が強調されたシナリオに変更させられているのです。英語原題の『Mr. Deeds Goes to Town』には、「田舎からNYへ」の他にも「(ギャンブル中毒の通訳のように?)大金をばらまく」、という隠語的意味合いが含まれているのだとか。文化改革がネタでは飢えた観客の“腹”には刺さらないとキャプラは読んでいたのかもしれません。ゆえに原作小説のタイトルを邦題として復活させた日本の配給元の意図が、よくわからないままなのです。

金に対して全く執着を見せないディーズ氏の行動が、莫大な遺産を管理運営して利益を得ようとする顧問弁護士他、都会の文化人たちにはとても奇妙に映るのです。その遺産を食うや食わずの生活に苦しんでいる貧農たちに分け与えるためディーズが新聞広告を出すや、大勢の貧乏人が陳情のためディーズ邸を訪れるのです。私はこの光景を観て、多くの地方自治体関係者が陳情のため大行列を作った“目白御殿”のことをふと思い出したのです。もしかしたら、ポピュリズムの原点は田中角榮にあり、角榮の原点はディーズ氏の直接民主制にあったのではないかと。

こういった場合、シーダー弁護士のような既得権利益にあずかる狡猾なエリート官僚は中飛ばしの目に合うわけで、司法やCIAという第3者的権力を使ってなんとかポピュリズム的動きを封じ込め、自分たちに利益を誘導しようとするものなのです。“泳ぐのに疲れた者が既に溺れている者を救おうとしない”動きにすっかり失望したディーズは裁判で弁護士も立てず黙り込んでしまいます。ロッキード収賄事件でダンマリを決め込んだ田中角榮のように。しかし、善良なディーズの人柄にすっかり惚れ込んでしまった新聞記者ベイブ(ジーン・アーサー)が、ディーズを愛していると証言したことによって元気を取り戻すのです。

この後の鮮やかな逆転裁判劇は、是非映画を実際にご覧いただいてご確認いただきたいのです。法廷内で暴力まで振るっておいてこんな大団円におさまるわけがないよ、ということは頭でわかっていても、心の中では善良なディーズをすっかり応援してしまっている自分に気づかされることでしょう。キャプラは、過去作品同様の陳腐な恋愛劇と思わせておいて、後半は見事な法廷劇へと本作をジャンル・シフトさせているのです。ブルース・ウィリスや日本の千葉真一も真似たと伝えられるゲーリ・クーパーの美しい右ストレートに一発KO間違いなしの1本なのです。