樽の中のディオゲネス

高速ばぁばの樽の中のディオゲネスのレビュー・感想・評価

高速ばぁば(2012年製作の映画)
1.0
 この映画のタイトルから立てられる問いは、①何が高速なのか、②ばぁばとは何か、そして①と②が解消されたうえで、③”高速”な”ばぁば”とは何か、である。
 単純に考えれば、本来動きの遅いはずの老婆(②)が高速に動くため(①)、その老婆はわれわれの思い込みを裏切るゆえに恐ろしい、ということになる。しかしこれでは、”高速であること”と”ばぁば”が、矛盾しながらそこに(現に)居ることが恐怖をもたらすという、いわば「オバケが怖い」と同じ論理(=あるはずのないことがそこあるという論理)に陥ってしまう。”ばぁば”が怖いのは、こんな凡庸な論理ゆえにではない。”ばぁば”であることが、”高速であること”と何ら矛盾していないがゆえに、”高速ばぁば”は怖い。逆に、この映画を観て、”ばぁば”が速く動いていることに対して、誰も恐怖を感じないだろう。
 
 ”ばぁば”は速い(①)。だから、この映画のタイトルは、事実を述べているだけに過ぎない。問題は、②”ばぁば”とは何か、の内にありそうだ。
 ところで、被造物である人間が、創造主たる神と異なるのは、欠如の有無である。神に欠如はない。人間の欠如は欲望に還元される。つまり、人間は欠如体であるから、その穴埋めをしようと欲望する。人間は欲望の対象を手に入れたらどうなるのか。当然、別の対象を欲望する。しかし人間は、何かしらの出来事をきっかけに、欲望の対象を見つけられなくなる。彼の欲望の対象は、その時”欲望そのもの”へと変わる。
 人間とは何かを知りたければ、人間の欲望を調べればよい。したがって、”ばぁば”とは何かを知りたければ、”ばぁば”の欲望をくみ取ってあげれば済む。結論を急げば、”ばぁば”の欲望とは”速さ”である。しかしながら、”ばぁば”は速い。とても速い。”ばぁば”は”速さ”を欲望しているが、つねに既に速い。つまり、”ばぁば”の欲望は満たされている。しかし、”ばぁば”の欲望の対象は、(ある事件をきっかけにして)もうない。ゆえに、”ばぁば”の欲望の対象は、”欲望そのもの”へと向かい始める。恐ろしい”高速ばぁば”の誕生である。