樽の中のディオゲネス

蜜のあわれの樽の中のディオゲネスのレビュー・感想・評価

蜜のあわれ(2016年製作の映画)
4.0
 物語の登場人物は、物語の間だけ生き続け、行動することができる。しかしその条件は、どんなにあがこうとも、彼らは”作者”の思うようにしか行動できない、ということである。(当たり前だけれども、)つまり、物語の登場人物には自我がない。
 これはむなしい。(「むなしいんだよ~」という大杉連の演技は必見!)だから、長年、物語を創り続けてきた作家は、こう思うのではないだろうか。「登場人物がひょっと自我を持ち始めてくれはしないだろうか」、「自分が織りなす言葉と言葉の間、文脈の間隙で、(作者から隠れて)彼らが”身勝手な”ふるまいをしでかしてくれてはいないだろうか」、と。つまり作家は(だぶん)、物語が終わっても尚、登場人物に生き延びていてほしいと思うのだ。しかしそれは(たぶん)、自ら創り出した登場人物から生命を奪ってしまう(=物語を終わらせてしまう)ことの罪悪感からの逃避でもある。(「自ら創り出したものに責任を持て!」という大杉連の力の入りきらないセリフは、おそらく自分に対して言っているのだろう。)
 自分が創りあげてきた物語の登場人物たちに対する倒錯的な愛情が、自身の実生活の孤独から生まれてきたことに気づくとき、彼はその狂人めいた精神性から解放される。けれどもそれは、むなしい現実に舞い戻り、単なる凡人へと”治った”ことを意味している。売れっ子作家としては、申し分のないほど落ちぶれているのだろう。狂った作家の末路とはなんたるや…。