樽の中のディオゲネス

ノスタルジアの樽の中のディオゲネスのレビュー・感想・評価

ノスタルジア(1983年製作の映画)
4.1
 作品内の会話の一部を抜粋する。なにか精神的なもの(簡単な言葉で説明できないような、ぼんやりとした事柄)を表現しようとしたときに、詩を媒体とすると、言葉(概念)が先入見となり、それがその表現を受け入れることの妨げとなるのだが、一方で、音楽を媒体としたとき、言葉が介入することはなく、純粋にその表現を受け入れることができる。本作では、クラシック音楽が微妙な調べとして用いられ、独特な雰囲気を醸し出している。
 精神的なものを表現する媒体として、映画はどうだろう。音楽があり、映像があり、言葉は対話(あるいはモノローグ)という形で分かりやすく表れる。映画は、詩や音楽と違って、「分かりやすさ」が重視された表現媒体であると言える。というのも、映画は、詩や音楽にくらべて、表現する方法が多いからである。とはいえ、ここで言う「分かりやすさ」というのは、その純粋な表現を受け入れる際に、大きな妨げ(先入見)となる。
 ここで問題になっているのは、[音楽<言葉]という「分かりやすさ」のヒエラルキーが、[言葉<音楽]という「表現媒体の純粋さ」のヒエラルキーに矛盾しているということである。さらにメタ的な視点で言えば、このヒエラルキーの矛盾から、[分かりづらい=表現が純粋]という図式が生まれ、単に「分かりづらい」作品をスゴイ作品(非凡な人にしか分からない作品)と区分けし、腫物扱いしがちである。
 本作の「炎上シーン」から、(平凡な感覚として)「気狂いピエロ」を思い出したのだが、本作には、「分かりやすいはずの映画が、ちょっと分かりづらい」という「ヌーヴェル・ヴァーグ」の様相があるように思った。こうした映画の試みは、おそらく、上記のヒエラルキーや、そこから生まれるメタ的な図式に対して、反旗を翻すものだろう。つまり、そもそも「映画は詩や音楽よりも分かりやすい」といった考えや、「言葉を用いない音楽の方が純粋な表現形態である」といった考えを、根本から覆そうという試みなのだろう。
 
 ……と言ったところで、この映画の「分かりづらさ」をフォローしたことになるのだろうか?