樽の中のディオゲネス

恋のためらい/フランキーとジョニーの樽の中のディオゲネスのレビュー・感想・評価

2.5
 他人に共感することで、心が温かく感じる人もいれば、疲れてしまう人もいる。あるいは、状況によって、それは変わる。
 他人と付き合うことが苦手なアルパチ氏は、他人との距離を極端に近づけることで、うまく生きている気になっている。他人と付き合うことが苦手なエム・ファイファー女史は、他人との距離を極端に遠ざけることで、うまく生きている気になっている。
 〈人は一人では生きていけない→他人に共感して一緒に生きよう!〉構造は、ともすれば、自明な論理として考えられてしまう。けれども、共感は主観的なものだろう。すくなくとも、エム・ファイファー女史が望んでいることを、アルパチ氏が当意即妙に為していると、私は思わない。したがって、観客のひとりである私は、アクターの一人であるエム・ファイファー女史に共感しようと努めるものの、結果として、共感はできないものだと痛感し、疲れてしまう。上の論理は、誰にでも当てはまるものなのだろうか。
 映画のアクターに共感しようとしている観客に向かって、そんなこと(共感)は、はなっから無理なのだよと示唆しているのなら、この映画は面白い。しかし、「本当は他人と一緒に居たいんだろ?さみしいんだろ?」と、エム・ファイファー女史に押し付けるだけでは飽き足らず、観客にも同意させようとしているように思われて、些か困惑させられる。
 とはいえ、この感想には問題がある。「主観的な共感」というのは、形容矛盾ではないか。そもそも、主観的なものの見方から離れようとして、共感の価値を認めようとしているのに、それが主観的であっては、元も子もない。それでも共感は主観的だというのなら、映画の見方は人それぞれで、すべての見方が正しいという相対主義に陥る。多くの映画には、スタッフや演者たちの意図が含まれているのだろうから、やはり、推奨される見方なるものがあるのだろう。
 そうであるのなら、――そして、自分の共感能力を信じるなら――結論は次のようになる。アルパチ氏は、他人への共感を重視しているにもかかわらず、ほとんど共感できていない。厳密に言えば、監督は、アルパチ氏がエム・ファイファー女史に対して共感しているという構図をつくりたかったのだろうが、それは成功していない。結果として、(ほとんど)共感能力のない男が、女を口説こうと奮闘すると、どうしても苦労せざるを得ない、ということになるだろう。これが90年代の幸せなのか。