YasujiOshiba

ぼっちゃんのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

ぼっちゃん(2012年製作の映画)
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ようやくキャッチアップできた。あの事件の話だという情報だけで見た。

冒頭からアナーキーで精密な音に圧倒される。どんなジャズなのかと思いながら、エンドタイトルに大友良英の名前を見て納得。この音楽が映像の底をきっちりと抜いてくれている。

コンタクトゾーンを避ける人間が、それでも愛という名の幻想とエロというなの欲望を揺れ動きながら、内側へと崩れ落ちながら生きる様を、秋葉原から遠く離れた場所の、はっとさせる景観のなかに浮き彫りにしてゆく。

もはや消えかかったいるガラケーと、画面の皮膜を覆う大げさなキャプションを小道具に、やはり内側へと壊れてしまったシリアルキラーのエピソードを織り込みながら、映画がぼくらを導いてくれるのは、ちょっとした希望にちがいない。なぜならぼくは、一度は外されたサイドブレーキが、しっかりと引き上げられロックされるところを見たのだから。

だからここにあるのは通俗的なリアリズムではない。じっさいの事件のリアルではなく、そんな事件がじっさいに怒らないようにするためのナニモノカ。その、形を持ちえなかったナニモノカに、形を与えるのが、どれほどシュールであって、それがほんもののリアリズム。

だから、サイドブレーキを自らの手でロックしながら、車のなかにとどまって叫ぶ「ぼっちゃん」は、ちょうどパゾリーニの『テオレマ』のラストで、裸で荒野に踏み出したマッシモ・ジロッティの、エンドマークを超えて響く叫びと重なってゆく。


追記:2022/7/28
「古川禎久法相は26日、東京・秋葉原で2008年6月、7人が死亡、10人が重軽傷を負った無差別殺傷事件で殺人などの罪に問われ、死刑が確定した元派遣社員加藤智大死刑囚(39)=東京拘置所=の刑を執行したと発表した。執行は21年12月以来で、古川氏が命令した。岸田政権で2回目」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/191863)

アガンベンは、こんなカール・シュミットを言葉を引用する。「もし罰せられることがなかったならば、なんらの罪も存在しなかっただろう。世界から犯罪を根絶する最も簡単な方法は、刑法典を廃止してしまうことだろう。そのときは『罪がないところに罰はない』という原則は、むしろ、『罰のないところに罪はない』と読みかえられるべきだろう」。

もちろんシュミットは、この逆説によって罪を本質的に「主観内的な」原則とみなそうとしている。簡単に言えば「悪き意志」のなかに引責可能性の原則がある。

しかしだ、すでに死刑に処せられた「加藤智大」というかつての死刑囚には、死刑に処せられるに相当する「悪き意志」が見出せるのだろうか。それが、この映画が問いかけてくるものなのだ。

ラストシーンは紙一重のところで「悪き意志」が発動しないことになる。しかし、それが「悪き意志」ならば発動しなくても死刑に処せられるということにはならないのだろうか。

殺してやると思っただけど、それは罪であり、だから罰に相当するなんて、一体誰が言えるのだろうか。

逆に言えば、まんがわるくて「悪き意志」が発動してしまった場合にだけ、それは罰せられるということになるが、それでいいのか。

なにかがおかしい。そうは思わないだろうか。

ぼくはずっとそう思っている。
YasujiOshiba

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