むっしゅたいやき

ミカエルのむっしゅたいやきのレビュー・感想・評価

ミカエル(1924年製作の映画)
4.0
芸術家故の孤独。
カール・Th・ドライヤー。
登場人物達の吐く紫煙が、強調された室内の巨大であるが真っ暗な虚空へ消える様が物悲しい作品である。

本作のレビューに於いて、カメラワークや視線劇に関しては既に先人によって語られ尽くしている。
故に無い頭をフル回転させ、『アリスとモンティウーの挿話』の必然性に就いて語ろうと思ったのであるが…、此れが冊子の中で映画史家の小松弘氏により、より詳細に、且つ明確に語られている事を発見してしまった。
─素人が史家を名乗る人と張り合うのも烏滸がましいが…、正直に言って「ちょっと吃驚」&「してやられた」&「ちょっと待ちなさいよ」感が凄まじく、後程不貞寝する積もりである。

此処では急遽方針を変更し、「何故つい先刻『偉大な愛を知った』と語り微笑んでいた芸術家の死に顔は、苦悩に満ち満ちていたのか」を考察してみたい。

この問いの答えを知るには、先ずパラレル─、ドッペル・ロマーノの一方である『アリスとモンティウーの挿話』を理解する必要が有る。
ミカエルと老画家・ゾレと対を為すこの二人の関係は、モンティウーがアリスの夫と決闘の末、命を落とす事で完結する。
モンティウーの末期の言葉はゾレの遺言とこれも対を為す、「幸福の代価を支払ったと、アリスへ伝えて呉れ」であり、恋人・アリスの心の中に生き続ける事を希求するものである。
そして、此れは私個人の感想であるが、モンティウーの最期の願いは、アリスもまた彼を想っているが故に、恐らく成就される。

顧みて、ゾレの場合は如何か。
微笑んだ時点での彼の脳裏にも、彼が庇護したミカエルの姿が映って居た事は間違いあるまい。
併しそこから想いを馳せ、傑作を売却し勝手にグラスやスケッチを持ち出し、あまつさえ新作発表会にも参列せずに浪費家の女性と不倫を続ける─、そんな彼が、老画家の事を思い起こすであろうか。
末期の際で、老画家はその事に想い至ったのであるとすれば─、彼の微笑みからの表情の変化も得心されよう。

また更に言えば、この落胆こそがドライヤーがパラレルと対比させ、結末の明暗として描きたかった物では無かろうか。
即ち、『芸術家には真の孤独が相応しく、それ故にこそ傑作を物に出来、また人生に於いては恵まれない』とするものである。

…若干想像を広げ過ぎた。
何れにせよ本作は、様々に解釈が出来、想像も可能な懐の深い作品である点に異議は無い。
ドライヤーのフイルモグラフィに於いても、特異な位置を持つ作品であろう。

扨、宣言通り不貞寝しよう─。
むっしゅたいやき

むっしゅたいやき