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ウォールフラワーのnoteのネタバレレビュー・内容・結末

ウォールフラワー(2012年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

チャーリーは小説家志望の16歳。高校に入学してスクールカースト最下層に位置付けられた彼はひっそりと息を潜めてやり過ごすことに注力していた。ところが、そんな彼の生活は、周囲の学生とは違った感性でパーティーで輝いていた、陽気でクレイジーなパトリック、美しく奔放なサムの兄妹との出逢いにより一変する。

映画の舞台は80年代のアメリカ。
アメリカン・ニューシネマの時代が終わった好景気のあの時代のアメリカ青春映画と言えば、陽気なお馬鹿さんや親近感の湧く落ちこぼれを描いた映画という印象が強い。
なんだかんだ言って恋や勝負ごとが人生の一大事として描かれるものが多いせいだろう。
自分が青春を送っていた当時は「ウンウン、分かる分かる」と思ったものだが、心が汚れてしまったのか?大人になってから青春映画を見ると「そんなことで悩むなよ…。人生もっと大事なことがあるぞ。」などと説教したくなる。

しかし、本作で描かれる若者たちの青春は、暗く、苦しく、そして重い。
なかなかヘビーな青春映画の佳作。
「長い人生これからが大変だぞ。頑張れよ」と我が子のように心配してしまう作品である。

チャーリーは高校生活に馴染めていない。親友は昨年自殺していて、また、子どもの頃に叔母へレンがチャーリーのために車でプレゼントを買いに行き、交通事故で亡くなったため、チャーリーはずっと「自分のせいだ」と罪の意識を抱えている。
なかなか壮絶で暗い過去の持ち主だ。

チャーリーは小説家志望だが、経験を本にする訳でも、辛い現実から逃避する訳でもなく、日記を見知らぬ架空の「トモダチ」に宛てて手紙を書く毎日。
気がつくと、部屋の壁際でひっそりと立っている「ウォールフラワー」だ。
80年代当時の言葉で言えば「根暗」で孤独な青春である。

チャーリーはパーティーで輝いていた上級生のパトリックにアメフト部の試合を観戦中に声をかけてみる。
パトリックの見た目は体育会系ではなく、バンドマンのような線の細い文化系。
きっとチャーリーは自分に近いモノを感じたに違いない。
パトリックから美しい義妹のサムを紹介されて、三人は仲良くなる。
チャーリーが恋人同士かと思っていたパトリックとサムは、親の再婚で連れ子同士が兄妹になった関係。
サムに一目惚れしたチャーリーの頬が緩む。
やがてチャーリーは、やがて仲間と呼べる人達と出会うが、これが映画や演劇志望といったほとんど文化系の人々。
所変われど「類は友を呼ぶ」のである。
初めて知る友情に恋。
チャーリーの世界は広がっていくように思えた。

それを象徴するのが、三人で乗った車が夜のハイウェイのトンネルを潜り抜けるシーン。
David Bowieの名曲Heroesが流れる中、サムが車から身を乗り出し、両手を翼のように広げる。
「一日だけは君もヒーローになれる」という歌詞も相まって、きっとチャーリーにも明るい青春が訪れると予感させる美しいシーンだ。

チャーリーは作家でもある英語の教師ビルと親しくなる。
チャーリーを理解してくれる大人も現れ、彼の高校生活は順調かと思われた。

しかしながら青春というものは、紆余曲折の連続。
仲間ができれば、人間関係の摩擦や軋轢もあるものだ。
ドラッグでラリって、勝ち組の体育会系に毒舌を吐いて要らぬ注目を浴びたり、サムの事が好きなのに、仲間の1人であるメアリーに告白されて彼女と付き合い始めるチャーリー。
友人が集まった時、「この中で一番可愛い女の子にキスをする」ゲームでサムを選んでキスしてしまい、メアリーを怒らせ、グループからも外されてしまう。

調子に乗って周りの空気が読めなくなるのも「若さ」である。
また、友情に報いたいと余計なことに首を突っ込んでしまうのも「若さ」である。

あるパーティーで、パトリックが体育会系のブラッドと同性愛関係にある事実を知ってしまうチャーリー。
その後ブラッドの父親に関係がバレて別れを余儀なくされるパトリック。
チャーリーは、高校のカフェでパトリックがブラッドのアメフトのグループから殴られるのを目撃し、思わず止めに入るが、知らないうちにグループ全員を殴り倒す暴力沙汰を起こしてしまう。
チャーリーの腕力が強いわけではない。
存在が目立たない人間の不意打ちが防げなかっただけである。
それで自分の存在感をチャーリーが感じてしまうのも皮肉なものだ。

パトリックを助けたことでチャーリーは再び友人達のグループに迎えられるが、別れの時が近づく。
卒業式の夜、サムはチャーリーに、本心ではチャーリーを愛していることを告白する。
チャーリーはサムの告白を受け入れ、二人はキスをするが、サムに触れられたことにより、チャーリーは幼少時に叔母のヘレンから性的悪戯をされていたことを思い出す。
恋の成就すら心に負担をかけるとは、チャーリーの「救い」と何なのだろうか?
翌日、サムとパトリックが学生寮へ越すために街を出た後、別れのショックで再び孤独を感じたチャーリーは自分が叔母ヘレンの死の原因だと罪悪感に駆られ、自殺を図る。

出会いと別れは学校生活の常。
想いが遂げられたなら、心が満たされて良き思い出として時と共に消化するのが、恋と性を描いた80年代の青春映画のお約束だったものだが、別れに際して「孤独に恐怖する」というのが暗い。

このチャーリーという若者には、救いはないのか?、常に誰かが側にいなくてはならないのではないか?と、彼の先行きが心配になるのが難点。
出会いと別れを繰り返し乗り越えて、(精神的に)強くなるのではなく、死のうとするのだから。
これが現代ならSNSなどでチャーリーは誰かと繋がる従属感が得られるのかもしれないのだが。

精神病院に2ヶ月間入院したチャーリーに家族は今までよりも優しくなり、卒業して引っ越したサムとパトリックが、チャーリーにかつてのように「遊ぼう」と訪れる。
思い出のトンネルを再び車で駆け抜け、自分は決して孤独ではないことをチャーリーが受け止めて、映画は一応のハッピーエンドだ。

透明人間同然の高校生活を過ごす覚悟をしていた16歳の少年チャーリーが、かけがえのない仲間や良き教師と出会い、持ち前の繊細な感性で自身や人生を見つめ、未来への扉を開いていく。
なんだか「私なんか…」とモジモジしている女の子を当てはめれば、日本の少女漫画にありそうな主人公の設定だ。

「いつも壁際にいた子に友達出来ました…めでたしめでたし」ではなく、恋やら友情の他にチャーリーの過去のトラウマも描かれ、明るく健全なイメージのアメリカンな青春から外れた、かなり暗い作品。

それでも最後まで見ることができたのは主演の3人の若手俳優の繊細な演技のおかげ。

メジャー系エンタメ路線で強気な少年を演じてきたローガン・ラーマンが見せる意外なほど自分の立場に怯える視線は、内気な青春を過ごした者なら共感するだろう。

最も光るのは、ゲイと公言するパトリックを演じるエズラ・ミラー。
パーティーのダンスや木工の授業で、はしゃぎながら独創性を発揮し、自分は周りとは違うのだとアピールする。
ロッキー・ホラー・ショーに出てくるバイセクシュアルの型破りなキャラクター、フランクン・フルターは彼の憧れなのだろう。
応援上映でフルターを演じる目つきはまるで自己表現するかのように真剣。
だが、心に傷のある者同士だとパトリックがチャーリーに内心を吐露するシーンは切なく、内なる弱さとのギャップがある。
こんなにも自分を正直に曝け出す人間なら「友達になりたい」と見る者の心を掴む。

エマ・ワトソン演じるサムは、自分の美貌など何の役にも立たないと割り切っているかのような堅実な女の子。
一通り遊び倒したのか?ドラッグやパーティーに翻弄されるチャーリーを「しょうがないわね」と気遣う優しさを見せる。
「ハリー・ポッター」シリーズでのハーマイオニーの勝ち気な優等生とは違う、ちょっと大人びたお姉さまだ。
3人が3人ともそれまでのキャリアとはまったく別な顔を見せてくれるのが本作の最大の見どころだろう。

恋愛や将来への不安、誰にでも心の傷や背負うモノがある…。
そんな当たり前のことを実感させる青春映画だ。

ホームカミングやプロム、ドラッグにアルコール有りのパーティー、チアリーダーに応援されるスポーツと、華やかなアメリカ文化の影に隠れた複雑な事情を抱えた者たちの暗くてヘビーな青春。

劇中流れる曲もThe SmithsやNew Orderなどアメリカよりイギリスの曲が印象的に使われているのもアメリカらしくない。
ロッキー・ホラー・ショーも元はといえばイギリス産の舞台だ。
アンチ・アメリカンな映画とも言えるだろう。
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