ベイビー

親密さのベイビーのレビュー・感想・評価

親密さ(2012年製作の映画)
4.6
本当に素晴らしい映画体験でした。
久しぶりに魂が震える作品と出会いました。

今作はENBUゼミナールの映像俳優コース卒業制作として作られた作品。濱口竜介監督商業映画デビュー前、中期の作品となります。

物語の内容は、新しく上演する舞台演劇の演出に悩む令子と良平。二人は共に演出家であり、主要演者であり、恋人同士でもあります。

作品の精度を上げるために、二人は演者として表に出ることは辞め、令子は演出家として良平は脚本家として裏方に徹することにしました。しかし公演が近づくにつれ、二人の持つ演出プランの食い違いで次第に険悪なムードが漂って行きます…

「あなたは私ではないのですか?」
「なぜ私ではないのですか?」
「じゃあ、あなたは誰ですか?」

今作のメインテーマは対話。今作に限らず濱口監督作品では対話を重んじて人と人との繋がりを事細かに描いていますが、今作ではより"対話"や"言葉"の大切さを強調した作品になっています。

"私"と"あなた"という隔たり。その隔たりを言葉で埋め、対話で結び、正しく相手を尊重し合う…

上映時間255分という4時間以上の長尺で、前半の2時間は舞台までの準備期間のゴタゴタを描いた話。作品に携わる各々が自分たちなりに作品に意気込んでいるのですが、公演日が近づいているにも関わらず令子は演出家として台本とは関係ない"対話"にまつわるミーティングばかりを行います。

次第に劇団内で広まる不安。時間がないのに一向に稽古を進めない令子に対して劇団内部で不信感が漂います。自然と沸き起こる苛立ちと葛藤。思い通りに行かない焦りが劇団内に広がって行き、良平との仲もギクシャクして行きます…

それから約10分間のインターバルを挟み、後半の2時間は彼らが前半で準備し続けてきた舞台「親密さ」をそのまま通し続けるものでした。「ドライブ・マイ・カー」ではチェーホフの「ワーニャ叔父さん」を下敷きにした演劇や舞台稽古が随所に挿入されていましたが、映画の中で演劇の芝居をまるまる見せてくるなんて、なかなか大胆な構成ではないでしょうか。僕の映画体験ではもちろん初めての経験です。

この映画の構造としては、前半で悩み、苦しみ、苛立ちはじめた心の迷いを、後半の演劇が答えを指し示しているような作りになっています。前半の登場人物たちが抱える欺瞞や矛盾が後半の演劇のセリフとリンクし、登場人物たちの対話が進むにつれ、彼らの悩みの根本がロジカルに紐解かれて行くように見えるのです。

この映画のタイトルであり、劇中演劇のタイトルともなっていた「親密さ」は、アメリカの小説家レイモンド・カーヴァーの短編小説「親密さ」にも関連があるように思われます。

レイモンド・カーヴァーは短編小説・ミニマリズム、ダーティー・リアリズムの名手として、ヘミングウェイやチェーホフと並び称されることも多い作家です。ミニマリズムとは、作品の完成度を上げる上で必要最小限まで装飾を省略したスタイルとのこと。ダーティー・リアリズムとは、日常生活の卑劣な部分や平凡な側面を飾り気のない言葉で表現するスタイルを指します。

今作の劇中演劇の「親密さ」は正にそのスタイルで、舞台装飾が最小限に抑えられていたことはもちろん、若者たちの日常に潜む他者と自己との隔たりや、思い通りにならない恋愛のベクトルがリアルに描かれていました。

リアルと言えばその演技も実にリアルで、無名な役者さんたちの自然な演技が丁寧にセリフを紡ぎ、それが自ずと言葉の力強さに表れ、見ていてとても胸を打つのです。

「言葉は想像力を運ぶ電車」

人は言葉を繋ぐ駅で、言葉があれば日本中どこへでも届けられる…

言葉は対話によって人伝に繋がって行きます。しかし人が正しい場所に正しく言葉を置かなければその言葉は正しく響きません。この物語で発せられたセリフたちは登場人物たちのリアルな感情を上手く引き出し、正しい場所で言葉と人と魂を一つに結びつけようとしているのです。

それを可能にさせているのが言葉の伝え方。つまりはセリフの語り方だと思います。冒頭の濱口メソッドを感じさせる渡部くんへのダメ出しは、伝え方の大切さを意図的に示しているように感じられます。

そして、ファーストカットから度々見られる電車での移動シーンはそのメタファーになっていることも分かります。正しく人を運ぶこと、正しい場所に降ろすこと。それは言葉も人生も同じで、言葉も人生も正しい場所に正しく届けなければ、行き場を失ない迷子になってしまうのです。

作品の中で言葉の数は膨大な量なのですが、その言葉は惰性に流れ去るのではなく、しっかり頭の中に留まってくれます。それは正しい言葉がそこにあり、正しい伝え方で語られている証拠ではないでしょうか。

圧巻だったのは前半パートのクライマックスで、令子と良平がひたすら歩き対話する超ロングテイクです。

舞台公演前、心が離れ離れになりそうな令子と良平。良平は勝手に脚本を書き変えた令子に怒り、家から飛び出します。良平を追う令子。電車の中で彼に追いつくと二人は電車を降り、暗い夜道を互いの感情をぶつけ合いながら歩き続けます。

数十分にも及ぶ二人が歩く姿のワンカメワンカット。カメラは暗い夜道を歩く二人の背中を追い続けます。二人はひたすら歩き、対話をし続けます。言葉で自分の本音を曝け出し、言葉で相手を理解しようとし、言葉で自分と相手を繋げようとしています。

対話を重ねることで次第に親密に寄り添う二人の心。二人の背中を撮り続けていたカメラは、二人の距離感が縮まるにつれ、ゆっくりと正面へと回り込みます。その時二人の背面にはうっすらと朝陽が昇り、じっと暗い帳を下ろしていた夜が白々と明けようとしています…

僕はこの一連の流れ、このワンテイクにとても感動してしまいました。

このひたすら長いワンカメワンカットの中で、夜の闇から夜明けまでを延々と撮り続けるこのテイク。単調な画面の中、淀みない対話を聴いているだけで二人の心が素直になり、次第に寄り添っていくのが感じられます。そうやって二人の気持ちが前向きになれた時、それを示すかのように夜が明け、二人の未来を照らそうとしているのです。

このテイクはもちろん一発本番でしか実現できません。それが一日でできたのか、何日もかかったのかは分かりません。いずれにせよ緻密な計算と準備が必要ということは安易に想像できます。本当、奇跡のような名シーンです。

濱口監督はよく「映画とは現実の記録に過ぎない」と仰っています。映像というものは全てカメラの前で起きた現実の投影なのだと。

それで言えばこのテイクはそれを最大限活かしたシーンだと言えます。長い時間の中で夜が明けるという自然現象と、対話による二人の感情の移り変わりを同時に映す。この二つを詩的にカメラに収めた現実は、今まで僕が観てきた数々の映画作品の中でも最上位にあたるくらい素晴らしい演出でした。映画という虚構の世界にもたらされる圧倒的な現実の厚みが、繊細な演出によって今までに観たことのない感動を与えてくれたのです。

そして、後半の演劇パートも圧巻でした。正に「言葉」を大切にした物語。こんなお芝居なら観に行きたい。素直にそう思わせてくれたいい作品でした。

このお芝居も濱口監督が演出されたと思っていたのですが、舞台の演出は令子を演じた平野鈴さん、脚本と作詩を担当されたのが良平を演じた佐藤亮さんとのこと。役柄そのまま二人がメインとなってこのお芝居を作り上げただなんて本当に凄いと思います。

そして上演が終わり、物語を締めくくるラスト15分も本当に素晴らしかったと思います。

二人を別々に乗せて並走する電車。
それは別々の人生というレールを進む、
「私」という電車と「あなた」という電車。

俯瞰で見るその電車の寄り添い方は、二人で夜な夜な朝まで歩き、話し続けたあのシーンを思い起こさせます。あの日、あの夜二人でひたすら歩き、語り明かして通わせた二つの心。その二人の「親密さ」は言葉がある限り、いつでもどこでも繋がれるのです…
ベイビー

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