ninjiro

リアリティのダンスのninjiroのレビュー・感想・評価

リアリティのダンス(2013年製作の映画)
4.8
過去の自分だけではない。
自身の父や母は勿論、今に、未来に、家族という形式を持つ全ての関わりに。

映画の中には子供がいる、大人もいる、聖者や貧者、独裁者もいれば革命家もいる。
しかしこの色とりどりの世界に描かれる家族はたったひと組だけ。
その家族を取り囲む妻あろう、夫あろう、子あろう、親あろう人々は須らくそれと明確に表現されず、中には水を欲して喉の奥が張り付くような欲求を持って理解や愛に群がる乾いた人々。
しかし如何に家族として明確に形取られていてもその心情は他に何ら変わらず、それぞれの意図は極端に他者の理解の外にあり、例え彼らの根底に胸焦がす愛があろうとそれを語りもしない。
そもそも組成された端緒から父・母・子…と各々に役割が与えられ、社会通念によってそれぞれの関係性が決定される家族というものは、疑問を差し挟む余地も無く頭から白黒を叩きつける強権政治と同じく舵をとる者の振れる一手によって置かれるその場の色を変える。
そんな家族の形の一つを、長く、遠く離れた故郷を、それらの煌めきもどす黒さも、生も死も、過去も未来も、全てを分厚く上塗りして愛を持って抱き締めるホドロフスキーの今がある。

それは映画作りを中断し23年が経った今だからこそ、80歳を越えて、愛息の死を乗り越えた今だからこそ再生をする意味を持つもの。
愛は決して精算されない。
ここで示される愛は厳しく、傷付け、苦悩し、懺悔し、傷だらけで抱擁し、癒し、また繰り返す。
喜びと悲しみの綱引きの最中には当の本人にも、他の誰にも知られることもない愛がある。
そのままに捨て置けば止めどない奔流のような愛。
それは誰の胸にもあって、実に利己的で、グロテスクで、美しい。

ホドロフスキーの指先により乾いたトコピジャと家族という一集団の抱えた鬱屈したリアリティは急かされる様に狂乱のダンスを踊り、彼の中の散り散りの記憶とイマジネーションの粒が混じり合って元あった現実と別の次元の現実を駄々広い荒野に隆起する巨大な砂城のように構成し、映画の終わりと共にまたそれは風に吹かれて散逸し元ある景色に戻っていく。

後に残るのは希望でも絶望でもない。
止まり続ける益無き郷愁などでもない。
我々自身がそこで見付けた、まさに結晶の様に輝きを放ち続ける愛だけだ。
ninjiro

ninjiro