マティス

ラストエンペラーのマティスのレビュー・感想・評価

ラストエンペラー(1987年製作の映画)
4.8
 坂本龍一が逝ってしまった。
 稀有な才能が失われたことを残念に思う。彼はマルチに活躍する才人だった。考える方向は違っていたが、彼は自分の思いを世界に発信出来る人だった。そういう人は多くはいない。

 映画における音楽の役割は大きい。この作品が多くの人の記憶に残るのは、坂本のテーマ曲に負う面も大きいと思う。音楽は3人が担当し、中国人もいた。テーマ曲で耳に残るのは胡弓だが、このテーマ曲を作曲したのは、中国人ではなく坂本だ。
 何故ベルトルッチはエンニオ・モリコーネではなく、坂本龍一を音楽担当に起用したのだろうか。「戦場のメリークリスマス」で坂本のことを気に入ったからと伝わっているが、加えて理由を挙げるとすれば、その「戦場のメリークリスマス」のプロデューサーだった英国人のジェレミー・トーマスが、この作品でもプロデューサーを務めたことも、少なからず坂本の起用に影響したのではないかと思う。
 彼は独立系のプロデューサーだ。独立系のプロデューサーがこの作品を撮るための巨額の資金を集めたことに驚くし、そんな彼が、この頃に日本人に関心を寄せてくれた珍しい人の一人だったことを嬉しく思う。彼はベルトルッチとはこの後に「シェルタリング・スカイ」でも組んでいるが(坂本も)、北野武監督の「BROTHER」でもプロデューサーを務めた。音楽は久石譲だ。後には、三池崇史監督の「十三人の刺客」や「一命」もプロデュースしている。「一命」の音楽は坂本龍一。
 ベルトルッチは坂本に、「もっとエモーショナルに!もっとエモーショナルに!」と要求して坂本は閉口したらしい。ベルトルッチがそう叫んでいる姿が何となく目に浮かぶ。

 この作品を今観て思うのは、ヴィスコンティの作品との類似性だ。すでに他の方が提唱していて一般論になっているのなら、今更な話でお恥ずかしい。
 私が指摘する類似性は、それらの作品を撮ろうとした背景や題材のことだ。私には、ベルトルッチの「暗殺の森」、「1900年」そしてこの「ラストエンペラー」が、それぞれヴィスコンティのドイツ3部作、「ベニスに死す」、「地獄に堕ちた勇者ども」、「ルードヴィヒ」に対応しているように感じる。しかし、ベルトルッチが、ヴィスコンティのこれらの作品を意識して撮ったと思っているわけではない。彼らは別個に自らがこれらの作品を構想した。

 すべての作品に共通するのは人間の狂気だ。ベルトルッチもヴィスコンティも、若い頃にその狂気がファシズムという形をして、自分たちの社会に強く影響を与えたことを目にした。彼らは自分が映画監督であるという立場を十分意識した上で、狂気が人間をとらえていく様を、作品として残す義務感や責任感のようなものを、当事者だった者として意識していたのではないかと思う。
 それぞれの3作品は、偶然かそれとも必然だったのか、一個人、家族、国を舞台に描かれている。これらの作品を撮り終えた後は、二人はふたたび狂気を撮ってはいない。ライフワークにしていたものの区切りがついた感じだったのか。

 日本の監督はどうだろう。ヴィスコンティなどと同世代の監督で、狂気の現れをファシズム、もしくはそれ以外の時代を動かしたと意識のうねりと捉えて、作品として撮った監督は誰かいるのだろうか。私は日本の監督のことは詳しくないが(外国の監督についても詳しいわけではないが)、黒澤にはそのような問題意識があったようには感じない。
 小津はどうだろう。彼は監督仲間から、なぜ左派的な作品を撮らないんだと責められていたというような記事を見たような記憶がある。今に続く左派に汚染された日本の映画界を示すエピソードだと思う。私は、「東京物語」の紀子の人物像や、「秋刀魚の味」での元部下坂本(加東大介)の描き方に、ファシズムという側面ではない小津の戦争の捉え方が垣間見れるような気がしている。

 戦後、あの戦争について聞かれた小林秀雄は「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか」と言ったと伝わっている。彼一流の皮肉だと思うが、私は彼に共感する。






 この作品には思うところが多い。溥儀という実在の人物を主人公に、歴史と場の結節点というべき満州を舞台に描かれた作品だからだ。そして満州は、その後の日本の死命を決したと言っても良い舞台だった。
 そこに彼のような人物が登場したということに、運命的なものを感じる。それはドイツであればルードヴィッヒのようであり、日本の歴史を振り返ると、崇徳上皇が彼のような役回りだったと思う。いずれも政治の舞台に身を投じるべき人ではなかった。本来弱い人間だった。彼らは文人だった。(ルードヴィッヒは政治に関わらなかったでしょと言われたらそうかも知れないが、皇帝という立場が彼を捕えて離さなかった)。
 
 レビューというよりも雑感という趣きで、この作品にまつわることについて触れてみようと思う。満州には関係するが、作品と関係がないこともあるので、興味がない方は読み飛ばしてください。





 この作品は、溥儀が書いた「わが半生」という手記をもとに作られている。私はこの本は読んでいないが、R.F.ジョンストン(この作品ではピーター・オトゥールが演じていた家庭教師)が書いた「紫禁城の黄昏」は読んだことがある。あの収容所の所長が読んでいた「Twilight in the Forbidden City」の翻訳版だ。私が読んだのは祥伝社の本だが、岩波書店も翻訳を出版している。
 この岩波書店版は、原書の完訳ではない。かなりの章を省略している。そこには、清末に至る過程や、溥儀が皇帝となった背景が客観的に書かれていた。原書を書いたのは日本人でもなく、中国人でもなく、やがて日本の敵国になる英国人だというのに。省略した理由は、「主観的な色彩の強い前史的部分」だからだそうだ。訳者がそう言っている。一つ前のレビューでも書いたが、自分の考えを他人に押し付けたい人は、自分にとって不都合な事実を伝えない。岩波書店版に義憤を感じた方が完訳し、祥伝社版が世に出た。

 ジョンストンは、最初は溥儀の方から日本に接近したと述べている。溥儀は新しい政府から命を狙われる危険を感じていたが、イギリスもアメリカも彼を受け入れず、日本は人道的な観点から彼を保護した。当時、日本はこれ以上中国に深入りする考えはなかったので、溥儀の接近に当惑した。それが次第に満州の支配を考え始めたころから、日本も溥儀を利用することを考え始めたというのが歴史が辿る過程だ。
 後に溥儀は東京裁判で、すべては日本軍部の仕業であり、自分はまったくの傀儡に過ぎなかったと証言したが、満州事変の時に溥儀が日本の陸軍大臣宛に出した、満州国皇帝として復位し龍座に坐することを希望する、と書いた親書を反証資料として提出されている。弟の溥傑は、溥儀のあまりの情けなさに、日本の軍部は私たちを利用したかも知れないが、我々も彼らを利用しようとしたことを何故証言しないのかと嘆いた。

 故人をけなすわけではないが、坂本龍一は女性関係が華やかだったと聞く。しかしそのことで、彼のことを悪く言うのをあまり聞いたりしないように思う。そのあたりは、アイドルや歌舞伎役者とは違う存在のように、一般に思われていたのだろう。小澤征爾もしかりだ。
 その小澤征爾だが、その一風変わった名前の由来が、満州に関係しているのをご存知だろうか。征爾の征は、板垣征四郎(A級戦犯)という満州に駐屯していた関東軍の高級参謀の名前から、爾は同じく関東軍参謀の石原莞爾から小澤の父開作がもらった。満州事変は石原莞爾の構想を実行したものだ。
 開作は、満州国の「五族協和」というスローガンにひどく共鳴していたという。五族とは日、漢、朝、満、蒙のことだ。この作品では、宮廷以外の満州国の様子はほとんど触れられていないが、当時の満州の大都市ハルビンは、様々な民族が行き交う国際都市の様相を呈していたと聞く。そのハルビンで多くのユダヤ人の命が救われたことをご存知だろうか。

 当時ナチス・ドイツはユダヤ人の迫害を強めていたが、ヨーロッパの国でユダヤ人を受け入れてくれる国は少なかった。そこでユダヤ人の一部は救いを求めてシベリア鉄道に乗って東に向かった。しかし彼らは難民だったので、満州国に入国できるパスポートを持っていなかった。酷寒の中、1万名を超える人々が飢えにも苦しみながら、ソ連と満州の国境で立ち往生してしまった。陸軍でハルビン特務機関長をしていた樋口季一郎はそのことを聞きつけ、彼らを救うために職を賭して彼らを満州国に受け入れるように動いた。
 職を賭すというのは、当時日本はナチス・ドイツと同盟関係にあって、ナチスがユダヤ人を敵視していることを知っていたから。ドイツはユダヤ人救済に抗議したが、樋口の上司だった関東軍の東条英機参謀長(A級戦犯)は、「当然なる人道上の配慮によって行った」と一蹴した。樋口はハルビンで難民の医療介護を行うとともに、満鉄総裁の松岡洋右(A級戦犯 公判中死去、戦時中は外相)に連絡し、松岡はハルビンから上海への特別列車を仕立てて彼らを無事に送り届け、多くのユダヤ人はそこからアメリカに渡った。
 松岡は親ナチスと見られていたが、「私は(ナチスの)反共の協定は支持するが、反ユダヤ主義には賛成しない。この二つはまったく異なる。この点を日本は明確にしなければいけない」と言ったという。
 この満州国を経由してユダヤ人が脱出するルートは、ドイツとソ連が戦争状態になり、シベリア鉄道を使えなくなるまで続いた。彼らが救ったユダヤ人は2万名を超えると言われている。杉原千畝の命のビザはよく知られている。彼らのことはあまり知られていないと思う。現代の日本は難民受け入れに非常に消極的だが、彼らが当時行ったことは、もっと世に知られてよいと思う。
 その後、初めて満州国にユダヤ人難民を受け入れた年だが、日本は五相会議で「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定している。そこにはユダヤ人を他国人と同様に公正に扱うことが決められていた。五相会議を主導したのは先に紹介した板垣征四郎だ。陸相になっていた。彼に働きかけたのは陸軍大佐の安江仙弘で、安江は満州でも樋口を補佐してユダヤ人を助けた。

 これらの話には後日談がある。
 終戦当時、樋口季一郎は第五方面軍司令官として北海道や、千島列島を管轄していた。終戦の8月15日の後の18日にソ連が千島列島の東端の占守島(しゅむとう)に突如軍事侵攻してきた。ソ連は北海道まで侵攻して占領する意図があったと言われている。日本軍は終戦により武装解除するように命令を受けていたが、樋口司令官は自衛のための戦闘を命じ、ソ連軍を撃退した。もし樋口が命令通りに武装解除して抵抗していなければ、北海道は日本の領土ではなくなっていたかも知れない。
 スターリンは自分の野望を挫いた樋口を戦犯に指名したが、その動きを知った世界ユダヤ人会議がGHQに働きかけて樋口を守った。樋口は2度も国の方針に背き、自分の信念を通し、日本、日本人の尊厳を守った。

 ソ連は満州方面でも、日本軍が武装解除した後に軍事侵攻したが、駐蒙軍司令官だった根本博も、武装解除の命令を無視してソ連軍と戦い、約4万人の居留民を守り抜いた。根本は優秀な軍司令官だった。
 万里の長城まで戻りついた民間人、軍人は、昨日までの敵であった蒋介石率いる国民党軍の庇護のもとで、無事に日本に帰国することができた。 一方、満州国の関東軍は総崩れになり、居留民は悲惨な避難を余儀なくされた。

 蒋介石の妻は、有名な宗氏三姉妹の三女の宗美齢。次女宋慶齢は孫文の妻。長女は大富豪に嫁いでいる。宗氏三姉妹は「宗家の三姉妹」という映画にもなっている。何やら、お前は徳川、俺は豊臣、と別れた真田信之、信繁(幸村)兄弟のような姉妹だ。
 溥儀の父は醇親王と言い、この作品でもチラッと後ろ姿が出てくる。彼は溥儀の実質的な後ろ盾になっていたのだが、溥儀が満州国皇帝になってからは、彼と距離を置いていた。従って、戦後醇親王は戦犯として罪を問われていない。彼が住んでいた大邸宅には、彼の死後宗慶齢が住むことになる。
 その後蒋介石の国民党は、毛沢東率いる中国共産党に押され、台湾に逃げ込む。いよいよ共産党が台湾に攻め込もうとした時に起きたのが金門島の戦いで、この戦いを国民党側で指揮し、台湾を救ったのがあの根本博だ。
 根本は国民党が存亡の危機に陥ったことを知り、国民党が終戦時日本人居留民を無事に帰国させてくれた時の恩義を今こそ返す時だと、単身台湾に密航して戦闘の指揮にあたった。根本のこの時の行動は、「この命、義に捧ぐ」という本になっている。今に至る台湾と中国の関係は、もっと言うと日本との関係はこの時の戦いで決まった。

 溥儀が天津港でジョンストンとお別れするシーンがあった。あの時に楽隊が演奏した「蛍の光」の原曲はスコットランド民謡だ。ジョンストンはスコットランドの出身。日本では卒業式などのお別れの時に「蛍の光」が流れるが、あのシーンで流すようにアドバイスしたのは、坂本龍一ではなかったか。
 溥儀が車の中で、ジョンストンに記念の品として扇子を渡すシーンが描かれていた。実際にあったことだ。その扇子には中国の古い惜別の詩が書かれていた。詩は溥儀が創作したものではなかったが、彼には詩人としての才能があったと、ジョンストンは書き残している。溥儀は創作した詩を匿名で新聞に投稿し、何度も掲載されている。最初に書いたが、彼は文人だった。崇徳上皇は小倉百人一首に美しい恋の歌を残しているが、彼も政治の世界に首を突っ込むべきではなかった。その結果配流され、今では、日本三大怨霊の一人にされてしまっている。

 満州国建国か溥儀の皇帝戴冠式のシーンがあったが、そこで溥儀の弟の溥傑は美しい妻と一緒だった。妻は浩(ひろ)という日本人女性で、侯爵嵯峨家の出身。二人が出会い、結婚するのは、満州国建国や溥儀が皇帝になった後なので、あのシーンは創作と言うことになる。
 二人は政略結婚だった。関東軍は溥儀を皇帝にしたが、溥儀には子供が生まれる気配がなかった。溥儀と正室婉容と仲が良かったが、満州国ができた頃から溥儀は同性を好むようになった。関東軍はせっかく溥儀を皇帝にしたのに、彼に後継ぎができず自分たちの影響力を及ぼせない人物が後継になることを懸念し、皇帝の弟溥傑を日本人女性と結婚させようと画策した。その女性が嵯峨家の浩だった。溥傑が数ある日本人女性の写真から浩を選んだと伝わっている。
 政略結婚で結ばれた二人だが、その後二人は愛を育んで仲睦まじい夫婦になった。浩は「流転の王妃の昭和史」という本を書いている。浩は美しく天真爛漫な女性で、日本と満州の友好親善のために心血を注いだ。夫婦は、慧生、嫮生という二人の娘を授かった。
 終戦後、夫の溥傑はソ連に捕らえられ、その後中国の戦犯収容所に入れられた。浩は中国共産党の人民解放軍に追われ、必死の思いで満州を脱出し、日本に渡った。この脱出の途中で溥儀の正室婉容は亡くなっている。その頃婉容はアヘン中毒で正常な意識がなく、一時拘束された部屋の中で糞尿にまみれて亡くなったと聞く。浩は最後まで婉容と行動を共にしている。溥傑と浩は、中国と日本で離れ離れで暮らすことになる。

 中国共産党も悪い奴ばかりではない。慧生は大きくなり、中国語を勉強し、何と自分で周恩来総理に、母を父のもとに行かせてくれという手紙を書いた。その後浩と溥傑は文通を許され、周恩来の手配で1961年に浩は中国に渡り、16年ぶりに夫溥傑に会うことができた。離れている間も、お互いのことを思い続けた。日中国交正常化の10年以上も前のことだ。でもきっかけを作った慧生は、この世にはいなかった。4年前に天城山心中という有名な事件で、無理心中の犠牲になっていた。
 溥傑と浩は、浩が病気で亡くなるまで仲睦まじく暮らした。浩が書いた本のあとがきに溥傑が「妻を語る」という文を寄せているが、グッとくる文章だ。


 日本が対米戦争に踏み切らざるを得ないと判断したのは、ハル・ノートをアメリカから突き付けられて、その内容を見てこれ以上アメリカと交渉することは無理だと判断したからだ。アメリカが要求した内容に日本が中国から撤退するという項目があり、この中国に、日本は満州も含まれると解釈した。
 大きな犠牲を払い、多大な投資をしてきた満州から撤退するなどあり得ないと日本は思った。しかし、戦後、ハル・ノートに書かれていた中国には、満州は含まれていなかったという説が出た。交渉時に満州が中国に含まれるかどうかを確認しなかったことに驚く。それだけが理由ではないが、日本の死命はこの満州が握っていたと言える。現在、満州は中国の一部だ。


 ここしかないという歴史の結節点に、溥儀という人物が現れた。本人に自覚はなかったが、溥儀は日本の死命にも影響を与えた。
 この作品は、ベルトルッチが抱えていた問題意識なしには撮れなかったと思う。よくぞ溥儀を選んだと思う。
 アメリカの資本が表に出れば、中国は撮影を許可しなかったのではないか。独立系のジェレミー・トーマスがプロデュースしなければ撮れなかった。そしてこの2人がいたから、坂本龍一はこの作品に関わることができた。
 彼が演じた甘粕は、終戦の際に青酸カリで服毒自殺した。終戦の混乱にもかかわらず、彼の葬儀には数千人の日本人、満州国人が集まったという。

 この作品はこれしかないというメンバーとタイミングで出来た作品だと思う。


P.S.
 この作品は作品賞をはじめ9つの部門でアカデミー賞を受賞した。しかし不思議なことに主演のジョン・ローンは主演賞にノミネートもされなかった。
 
 間もなく米連邦最高裁判所で注目の裁判の判決が出る。アファーマティブアクションの合憲性を争った裁判だ。ハーバード大学とノースカロライナ大学の入試において、人種などで差別されている人を救済するためのアファーマティブアクションが不当に運用されていると告発されている。黒人やスパニッシュ系を優遇して、アジア系、白人が差別されていると訴えている。アファーマティブアクションが政治的に曲解されて運用されているというわけだ。

 満州国は建前は五族協和だった。アメリカもまだ解決できていない。
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