マティス

瞳をとじてのマティスのネタバレレビュー・内容・結末

瞳をとじて(2023年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

瞳をとじて見つめたもの

 良いなと思う作品は多いけど、身体が震えるほど感動する作品がそんなにある訳じゃない。この作品はエンディングにさしかかる途中で、心臓がバクバクし出した。ビクトル・エリセ監督がこの作品に込めた思いが、確かに私に届いた気がしたから。こんなことは、イ・チャンドン監督の「バーニング」以来だ。エリセ監督はいろいろな思いをこの作品に込めたと感じる。届いたと思ったのは、私の思い過ごしかも知れないし、もしそうだとしても、すべてを受け止めれたわけではないと思うが、私が感じたことを書いてみる。


エリセ監督がこの作品に込めた思い

 エリセ監督はこの作品で、人間とは何か、人がその人らしくあるとはどういうことかということをテーマとして取り上げたと思う。そのテーマを追っていく過程を描くことで、映画が持つ可能性を示したかったのではないか。それは映画の素晴らしさでもある。ジュゼッペ・トルナトーレ監督が「ニュー・シネマ・パラダイス」に込めた思いとほとんど相似と感じる。
 「ニュー・シネマ・パラダイス」は、トルナトーレ監督が、映画を通してこの世界に幸福を届けていくという決意を示した作品というのが私の解釈。エリセ監督は自身の半生を振り返って、自分が映画作りに人生をかけてきたことが間違いないことだった、映画にはそれだけの力があると、この作品によって伝えたかったのではないかと思う。というか、自分自身でそのことを確かめたかったのかも知れない。

 この作品は、元映画監督のミゲルが、自身の作品を撮っている最中に失踪してしまった主演俳優のフリオを探し出し、記憶喪失となっていたフリオに記憶を取りさせようともがく姿を追ったものだ。
 ミゲルはフリオ主演の作品が頓挫した後、映画作りから離れ、小説を書いたりして糊口をしのぎながら長い間雌伏していた。でも映画への情熱はくすぶっている。ミゲルは、フリオがこの20数年の記憶を取り戻すことによって、ミゲルにとってもこの20数年が意味のあるものであったと感じられるのではないかと思っている。フリオが自分を取り戻すことは、ミゲルにとっても自分を再確認することだった。ミゲルはフリオに自分を重ねている。そしてエリセ監督は、このミゲルに自分自身を投影している。


エリセ監督がこの作品に埋め込んだもの

 エリセ監督は、この作品に自分が大切にしているものをいくつも埋め込んだように見える。それはエリセ監督によるオマージュでもあるのだろう。そのことに気づいたり、その意味を考えたりするのは謎解きのようで、この作品の楽しみを増している。
 まずは、ミゲルの未完作となった「別れのまなざし」で舞台となった「悲しみの王(トリスト・ル・ロワ)」という邸宅。ボルヘスの「伝奇集」の中の「死とコンパス」という作品に出てくるらしい。ボルヘスは、「アレフ」が収められている短編集は読んでいたが、「伝奇集」は読んでいなかった。読んでみると、なるほど「悲しみの王」という別荘がクライマックスの舞台になっていて、そこにはあの前後に顔を持つヤヌス像も飾られていた。
 ボルヘスはノーベル文学賞を獲ってもおかしくない文学者だったが獲れなかった。一般には知られざる大家と言っていい。もちろん短編小説としても面白いのだが、エリセ監督はボルヘスを自分に重ねたのかな、とちょっと意地悪に考えてみた。

 いくつかの映画作品も盛り込まれていて、自身の映画愛を私たちに伝えている。
 海辺の小屋で4人で食事をしている時にギターに合わせて歌っていたのは、「リオ・ブラボー」の劇中歌だった。ドライヤーの「奇跡」やチャップリンの「殺人狂時代」もあった。そしてなにより、エリセ監督自身の「みつばちのささやき」とトルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」。

 この作品は、エリセ監督がトルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」へのオマージュを込めたのではないか、と感じたのはこのシーン。ミゲルとフリオが二人して、白い漆喰を壁に塗り込めていたところ。カメラは少し離れたところから二人を撮っていて、カメラと二人の間には洗濯した白いシーツが風にゆらゆらとはためいていた。おやっ、これは「ニュー・シネマ・パラダイス」の冒頭のシーンとなんだか似ているなぁと頭の片隅に残っていたら、エンディングの映画館のシーンにつながって、それはまさに「ニュー・シネマ・パラダイス」のエンディングの映写室のシーンだった。映画館は閉館していたというのも「ニュー・シネマ・パラダイス」につながる話だし、冒頭に書いたように、まずもってこの作品自体がエリセ監督の映画に対する思いを表現した作品で、トルナトーレ監督が「ニュー・シネマ・パラダイス」に思いを込めたのと同じだ。それでトルナトーレ監督にオマージュを捧げたのかもと思った次第。
 そう考えてみると、ミゲルが監督だった時に助手を務めていたマックスは、今も大事にフィルムを保管していて、まるで「ニュー・シネマ・パラダイス」でのアレフレッドの役回りだ。映画に関して一家言を持っているところもそうだし。

 そして「みつばちのささやき」。
 エンディングを迎えようとする時、高まる期待にまるで心臓がバクバクと音を立てるようだったと冒頭に書いたが、それはこのシーンを観てこれから始まる展開に異常に期待したから。それは、マックスが「別れのまなざし」のエンディングシーンのフィルムをバンに載せて持って来て、リアゲートを開けて「まるで移動映画館だな」と呟いたシーン。
 あぁ、これは「みつばちのささやき」の冒頭のシーン、アナが姉と一緒に村にやってきた移動映画館で「フランケンシュタイン」を観たシーンに繋がっている!!!
 エリセ監督は「みつばちのささやき」では、アナが「フランケンシュタイン」を観たことから物語を始め、「瞳をとじて」ではフリオに「別れのまなざし」を見せることで、物語を終わらせようとしている。そこには同じようにアナがいて、アナの隣には姉ではなくフリオが座っている。ミゲルと同化したエリセ監督もいる!!!
 「みつばちのささやき」では実態が見えない精霊が大きなキーになっていたが、あれからおよそ半世紀を経て、エリセ監督が選んだキーは記憶を失った人物。身近で具体的だ。その人物を通して、人とは何かということをテーマとして選んだ。そのテーマの変遷にジーンとなった。


瞳をとじた三人と、とじなかった一人

 ミゲルはフリオの記憶を呼び醒ますために、「別れのまなざし」のエンディングシーンを見せた。劇中劇は死に瀕した父親フェランが、行方不明となった娘ジュディスに一目会いたいと、フリオが演じる探偵に娘を探させるストーリーだが、現実は娘アナが、父親フリオを探す展開になっていて逆転している。
 プロローグのシーンでフェランは言っていた、「私を無垢なまなざしで見れるのはあの子だけ」。そしてその娘は今は本名のジュディスではなく、チャオ・シューと名乗っているかも知れないと。
 フリオ演じる探偵が連れてきた少女はチャオ・シューと名乗った。フェランを見ても感情が動いている様子はない。フェランのことを憶えていないのかも知れない。
 ミゲルは気になって画面を見つめるフリオを見るが、フリオの感情が動いている様子はない。
 フェランはピアノで懐かしの曲を弾き、チャオ・シューの白い化粧を花瓶の水で乱暴に拭い、素顔を表に出した(あぁ、これって「ベニスに死す」で死を迎えようとする作曲家アッシェンバッハが白く自分の顔を化粧したシーンのオマージュ?)。
 チャオ・シューは扇子で上海ジェスチャーをして、無垢なまなざしでフェランを見つめ、自分はジュディスと名乗り、美しい涙をこぼした。娘が父親を認めた瞬間だ。フェランは満足のうちに息を引き取った。

 目を見開いたまま亡くなったフェランの瞳をとじたのはジュディス。その後にジュディスも瞳をとじた。そしてそのシーンを見つめていたフリオも瞳をとじた。
 ミゲルが自分の名前を名乗った時も、水兵時代の写真を見せた時もフリオは記憶を取り戻さなかった。でも、ミゲルが作った映画には、それらを超えた力があった。フリオに記憶が戻った瞬間だった。

 私はラストシーンで起きる出来事を見逃すまいと集中していたつもりだったが、その頃には私の頭の中はぐるんぐるんといろいろな思いが錯綜していて、かなり混乱していた。私の記憶では、ミゲルは瞳をとじなかった。見落としたかもしれない。

 フェラン、ジュディス、フリオが瞳をとじて、ミゲルが瞳をとじなかったとして、そのことが意味するのは、三人は区切りがついたが、ミゲルすなわちエリセ監督はまだ進行中の課題があるということ。つまり、次の作品を作るという思いを、このラストシーンにエリセ監督は込めたのかなぁ。

 この作品のプロローグとエンドロールに出てくる彫像は先に述べたようにヤヌス神で、入り口と出口を守る神とされている。エリセ監督が来し方を振り返り、映画に捧げた自分の生きざまを再確認したのがこの作品で、同時に未来への決意を込めている。何度もヤヌス神の彫像を見せたのは、私の解釈が当たっているとしたら、私はまたエリセ監督の作品を観ることが出来る。

 私の中で整理出来ていないのがアナの役回り。この作品では、フリオに置き去りにされた娘だが、「私はアナです」というセリフはご愛敬としても、もっと違う意味付けが出来たのではないかと、そこだけがモヤモヤしている。
マティス

マティス