かっつ

鑑定士と顔のない依頼人のかっつのネタバレレビュー・内容・結末

鑑定士と顔のない依頼人(2013年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

視聴後はエシディシのように唸ったよォォォ!!!う~~ううう あんまりだ…HEEEEYYYY あァァァんまりだァァアァ😱😱😱

でもさ、さすがにおかしくないか?だってよぉーただの老人虐めの映画なんて倫理的にもダメだろう?だから珍しく考察サイト色々読んだよ

んで、ゲットした情報は「ハッピーエンドって監督がコメントしてたから、時系列は病院→ナイト&デイではないか?」ということ。なるほど…それなら…うーむ😕

でもまだ分からない、こんな手の込んだ裏切りをされて、どこがハッピーエンドなんだ?どーも引っかかる…

このがんじがらめの紐を解くためにかなり考えた結果たどり着いたのが〝アドラー心理学〟

皆さんご存知ですか?『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』めちゃ面白いですよ🤓


・・・・・・


以下はただの自分への深掘りオナニー考察なので読む価値なし!まぁいつものことだけど。


まず、ヴァージルは強い劣等感から優越コンプレックス、つまり自分がとにかく優れているかのように振る舞い、見せつけ、偽りの優越感に浸っていた。この劣等感は他者との接触を断ち切っていることからもよく分かる。ヴァージルは他者から嫌われることを極端に恐れ、他者にから逃げ回っていたのだ。

一方のビリーもヴァージルからの承認欲求を捨てられず、物凄い手間隙かけて復讐を果たして消えた。おそらく彼が考えつく最高の絶望を与えたかったんだろう。この理由をアドラー的な目的論で言えば、ヴァージルとの関係を修復したくなかったからだ。ヴァージルから認められてしまえば、「オレって認められさえすれば本当は凄い画家になれたのに👩‍🎨」という言い訳ができなくなって、自分と向き合わないといけない。きっと本当に大した画家じゃなかったんだろう。だから関係をぶっ壊したまま去って、自分の優越感を維持したまま生きていく道を選んだんだと思う。

少し逸れるが、こうした承認欲求に囚われた人間とは、他者を自分の欲求を満たしてくれる対象としか見ていない、だから自己中心的な人間である。例えばビリーの周りには仲間がいる…ように見えるが、きっと心からは繋がっていないのだろう。そんな人間は世の中には腐るほどいるが。

ともあれ、ビリーの復讐心の構造はこんなとこだろう。しかしなぜハッピーエンドなのかという大きな問題は残ったままだ。これを理解するにはアドラー心理学でいうところの「人生のタスク」についての理解が必要だ。この人生のタスクとは、1️⃣自立すること2️⃣社会と調和して暮らせることの2つがある。そしてこのタスクを果たすためには、自分を受け入れ、他者を信じ、社会に貢献しないといけない。

1️⃣はまぁいい。騙される前のヴァージルにとって2️⃣は明らかに問題を抱えているのが分かる。しかし、偽クレアと出会った後ではどうだろうか。自分に出来ないことに気づき、俗世に降りてきて意見を伺い、周りの人間と対等に付き合えてるではないか。これまでのヴァージルは明らかに上から目線でモノを言う老人だった。

この一連の流れで、おそらく初めて他者と対等な関係が気づけたのだ。他者の気持ちから逃げないで向き合うことができたのだ。おまけに童貞も捨てられた!!

裏切られたのは物凄いショックだっただろう。しかし同じくらい他社と対等に付き合い、童貞を捨てられたことも衝撃だったのではないか。施設に入った後で、アドラー心理学に出会っ…たかどうかは知らないが、偽クレアと出会ったことで変化した自分に気づき、大切なのは自分の思考であり、他人がどう行動しようとも問題ではないと気づいたのかもしれない。そして、絵も愛する人も悪友も失ったことで、逆説的に「自分には価値があると気づき、勇気を持つことができた」のではないだろうか。

ラストシーンのヴァージルにはまだ迷いと葛藤が見て取れるが、そんな気づきを得られたと思わないと…ショックを乗り越えられたのが、ハッピーエンドというのが、全く理解できないのだ。だから「いかなる贋作の中にも必ず本物が潜む」とは、つまり一連の騙しのトリックの中から、潜んでいた自分の本当の心をヴァージルが手に入れられたことも示唆しているのではないだろうか。

そう考えると、偽クレアがラストシーンの後で会いに来るかどうかはもはや問題ではない。ヴァージルの生き方が変わり、これから幸せを掴んでいく可能性を感じられることこそがハッピーエンドの証なのだ。これで自分の心を納得させよう。そうしよう。

あーなんつーモヤる映画やねん。満点。
かっつ

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