sanbon

ビッグ・アイズのsanbonのレビュー・感想・評価

ビッグ・アイズ(2014年製作の映画)
3.4
「偽物」は如何にして「富と名声」を得る事が出来たのか。

以下、本レビューは「ビッグ・アイズ」のネタバレを含みます。

1960年代のアメリカといえば、「J.F.ケネディ大統領」の誕生や、愛と自由を謳った「ヒッピー文化」などが印象深い時代だが、先鋭的なイメージのあった反面「男尊女卑」のようなオールドスタイルな考えもまた根強く残る時代でもあり、既婚女性で働いていた割合は10%未満と非常に少なく、この当時の女性には"男性がいなければまともに生きていけない"ような側面もあったという。

今作は、そんな"女性の立場が弱い"1960年代を背景に、「キーン夫妻」と当時一世を風靡した「ビッグ・アイズ」にまつわる実話に基づいた作品である。

まずこの作品は、妻の「マーガレット」が制作した"異様な目の大きさで描かれた子供の絵"を自分名義で世に放ち、富と名声を手に入れた「ウォルター」という詐欺師の物語であるが、それを成し得た手口が巧妙だったとかそういう驚きは全くもって得られないし、「誰かの私欲の為に誰かが犠牲になる」類の話としては凡庸であり、痛みや苦痛を伴わない程度の支配しか起こらない為、ショッキングな内容を求めるとちょっと期待はずれになってしまうかもしれない。

言ってしまえば、単純にマーガレットを上手く抑圧する事により、口封じをさせたまま世間には彼女の絵を自分の絵だと触れ込み商売をし続ける、ただそれだけの話だった。

ただ、マーガレットが意のままに操られてしまった原因としては、彼女が内気な性格だった事もあるが、やはり時代背景が大きく関わる事となる。

マーガレットは過去に、横暴を働く夫から逃げ出した経緯があり、それにより一人娘を持つ"シングルマザー"となった事で、当時としては社会的な立場が極めて弱く、画家として生計を立てたいという希望はあれど、"女性の描いた絵"という事だけで軽視をされてしまい、彼女自身が評価を得るにはとても厳しい現実が横たわっていた。

それを、自身の商才と人当たりの良さを武器にウォルター(男性)がフロントマンを務める事により"売れる絵"にした功績は、紛れも無い事実だろう。

ただ、彼がまずかったのは画家という存在に対する情熱の深さと、それに反して彼の存在自体がまるっきりの「偽物」であった事に他ならない。

マーガレットがウォルターと出会ったのは、彼女が道端で開いた似顔絵屋での事だった。

その際、ウォルターもすぐそばで露店を開いており、彼はヨーロッパの風景画を売っていた。

話を聞くと、彼は以前パリで修行を積んだという画家であり、あるレストランでは絵を寄贈した御礼に、いつでもタダで料理を振舞って貰える程の知名度を誇っているという。

拠り所がなく不安で満ちていたマーガレットは、同じ志を持ち、優しく接してくれる理解者の存在に強く心惹かれ、二人はめでたく婚約を交わすのだが、蓋を開けてみると実はこのウォルターという男、出会いのキッカケでもあった"画家ですらなかった"事が後に分かるのだ。

それどころか、彼自身は"絵そのもの"すら描けないただの"ど素人"であったにもかかわらず、ビッグ・アイズの成功に取り憑かれたウォルターは、最終的にあたかも自分の存在が真実であるかのように振舞い出すのだ。

今作の主要人物であるウォルター・キーンはそんな"稀代の詐欺師"だが、思い返すと「偽作曲家の"佐村河内守"」や「偽プロサッカー選手の"カルロス・カイザー"」など、世の中では結構頻繁に「偽物」が発覚したりしている。

こんな大胆不敵な詐称事件が、何故こんなにも容易く成立してしまうのだろうか?

ウォルターに関しては、それが"1960年代という時代だったから"に違いない。

内容を紐解くと"女性軽視"の文化や、インフラが未発達だったからこその"情報操作"の成功があってこそだし、今では当たり前となった"模造品"という概念をいち早く商売に取り入れたセンスもまた、当時としては無い発想だったからに他ならない。

また、ビッグ・アイズが人気を博したのも"キャラクター性"の概念があまり定着していなかった時代において、その"目新しさ"がウケ、"時代の寵児"にまでなれたものと推察できる。

もし仮に今の時代に生まれていた作品なら、流行る流行らないは別として、おそらく"ポップアート"のようなサブカルチャーとしての扱われ方をされてしまい、確実に"美術品"としてはカテゴライズされていない筈だ。

良いのか悪いのか、ビッグ・アイズはそんな"今風"なポップさを兼ね備えている作品と言えるのだが、そんな事を思うと、時代が違えばビッグ・アイズだって格式高い芸術として扱われ高値の取引がされるのに、漫画やアニメは何故いつの時代も芸術とは決して認められないのだろうかと、心底疑問に感じてくる。

前回、美術に対する持論を述べる機会があった直後に、このような作品を観る事になったのは、偶然ながらも実にタイムリーな話である。

本来「芸術品」や「美術品」は、どこまで突き詰めても結局は"趣味のお話"でしかなく、その作品に対する良し悪しなど受け手の趣味趣向の域を決して脱しない筈なのだ。

しかも、明確な評価基準や、法律に基づく取引手段なども特に定めが無く、それが芸術かそうでないかは有識者や著名人が定義を勝手に見定めるものであり、そういうインフルエンサーに見初められたという"事実"こそが"価値"へと変換され、そして"値段"が決められていく。

世の中には、そんな曖昧模糊な「個人の感性」に数百、数千の金を払い、何兆円という大金が世界中を毎日行き交っているのだ。

どう考えても狂っている。

今作は、そんな"狂気の世界"に"狂気じみた憧れ"を抱く事で起きた、"数奇な事件"と言えるかもしれない。
sanbon

sanbon