むっしゅたいやき

歩みつつ垣間見た美しい時の数々のむっしゅたいやきのレビュー・感想・評価

5.0
分与される思い出。
夜を通し、ずっと眺ていた。
ヨナス・メカス。

作品を描き出すカット、其の作画法に関しては幾つも在ろうが、メカスの其れは、点描で抽象絵画を描くのに似る。
彼は短いカットを繋ぎ合わせ、また重ね、全体として一つのイメージを作り上げる。
長回しの少数カットで具象作品を作る、後期印象派にも似たドラマツルギーとは対極に位置する。

本作は本人が言う様に、メカスが撮り溜めた、家族及び友人、暮らし中の膨大なカット、膨大なコマ割りを、全12章にランダムに並べ、彼の静的な内的世界を表現している。
ゲリンの作品が「記憶」を客体視する事に比して、メカスの其れは「記憶」を私的な主観として、その儘提供する。
一つ一つのコマは些細な日々のショットではあるが、切り取り方や画角、送りスピードの緩急には、凄まじい迄のセンスと情感が溢れ出ており、唸らされる。
特に第八章に見られる、レンズフレア、光輪を利用した『小椅子の聖母』を彷彿させるショットには瞠目させられた。

本作は其の成り立ちから分かる通り、メカスの極私的なフィルム作品となる。
にも関わらず、何処か懐かしく見覚えの有る様な風景、居室、人々のカットが、320分の間続いて行く。
メカスは言う、「私は映画監督ではない。映画の撮影者だ」、と。
恐らくこの長尺を、我々に飽きもさせずに鑑賞させているのは、徹底的な作為性─作成者の意図─、の排除なのであろう。

本作は、メカスとその家族、友人達からの思い出の分与である。
我々は鑑賞中、彼等と共に、メカスの言う“楽園”で、仲間として共に過ごす。
繰り返される、「life, goes on」のダイヤログは、我々にこの日々の暮らしの中に在る“楽園”を慈しみ、愛おしむ様、優しく示唆する。

私はこの作品を鑑賞中、ずっと寂しく微笑んでいた様な気がする。
どうしてだかは、分からない。
─四年前、この偉大なる詩人の死と共に、この美しくも儚い“楽園”への入り口が、永遠に閉ざされてしまった事を知っているから、か─。
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