きゃんちょめ

トイ・ストーリー4のきゃんちょめのレビュー・感想・評価

トイ・ストーリー4(2019年製作の映画)
4.2
遅ればせながら『トイストーリー4』という映画を見たのだが、かなりよかった。

おもちゃの持ち主のボニーちゃんという女の子が数十秒で作った、「フォーキー」という、ほとんどゴミで出来ているキャラが出てくるんだが、フォーキーは、おもちゃとしての本質だけに削ぎ落とされたコンセプチュアルな存在者(マルセル・デュシャンの『泉』的な存在者)であり、(デュシャンの『泉』が「芸術であるために無くてもいいもの」を 削ぎ落としていったら便器を便器以外の仕方で捉えるためのコンセプト(概念)しか残らなかったのと同様に、)おもちゃとして絶対不可欠な、「持ち主に遊んでもらえる」という本質以外のすべてを捨てた存在者なのだが、それに対して、主人公のウッディは、アンティークでレアな骨董品としての価値はあるけれども、「おもちゃ」として最も大切な「持ち主に遊んでもらえる」という本質だけが失われてしまったマテリアルな存在者なわけだ。ギャビー・ギャビーも同様である。

というのも、ウッディやギャビー・ギャビーを作るためには職人の技、熟練の技術が必要だし、素材も高級なものが必要だし、ウッディの人生には、前の子供から次の子供へと受け継がれてきた長い長い歴史があって、ウッディは保存状態もいいので骨董品としてアンティークショップに保管され展示されることができるし、市場価値も高い。これらのことは『トイストーリー2』と『トイストーリー3』などで明らかにされた通りである。つまり、ウッディは歴史・素材・技術・地位などあらゆる価値を備えているが、「子供に遊んでもらえる」というおもちゃとしての本質的な価値だけがない。

他方で、フォーキーは、子供が幼稚園のゴミを使って数十秒で作った存在者なので、ほとんどの客観的価値は備えていないけれども、子どもが遊ぶことで生命がフォークに吹き込まれたのであるから、「子どもによって創造され、子どもに愛され、遊んでもらえる」というおもちゃにとって一番大事な本質だけは備えている。フォーキーには、ウッディとは逆に、おもちゃとしての価値しかないのだ。

おもちゃとしてのみ価値があるフォーキーを、おもちゃとしての価値のみがないウッディが保護するという設定はほんとうに見事である。

このような設定が、観客を、
「そもそもおもちゃとはなんなのか」
「なにがゴミで、なにが(生命を吹き込まれた)オモチャなのか。ゴミとおもちゃに明確な境界線を引くことなどできないのではないか。」
「子どもが遊んでくれるならば、石ころでもおもちゃなのでは?」
という問いの深みへと引きずり込んでいく。これらの問いが、ウッディやバズ・ライトイヤーを、そして観客を考えさせずには置かないのだ。

そんな中、子どもに置き去りにされたボー・ピープは、ある結論に達していた。「自分はもはやおもちゃではない。自由なのだ。自分は自分の本質に規定されてなどいないのだ。」という結論に。

『トイストーリー』という古き良きおもちゃが出てくる映画の、素材それ自体がもつマテリアルな価値を体現するウッディは、「遊んでもらえるならばどれほど粗雑な造りでもおもちゃであり、遊んでもらえないならばどれほど精巧な造りと価値を備えていてもおもちゃではない」という考え方を、最初、拒否する(「自分は古いタイプのおもちゃだ」とウッディが発言するシーンは象徴的である)。自分は子どもたちにもはや遊んでもらえないけれども、まだオモチャなのだと言い張って、ウッディは自分や他のオモチャのことを守ろうとする。しかし、トイストーリー・シリーズ自体がかつて持っていたこのようなおもちゃそれ自体への愛(おもちゃで遊ぶ「こと」ではなく、おもちゃという「もの」への愛)へと今作は向かわなかった。おもちゃそれ自体へのフェティッシュがこの映画にはない。そうではなくて、おもちゃは、あくまでもそれを遊ぶ子どもとの関係でのみおもちゃであり続けることができるに過ぎない。

そして、先ほどの問いはさらに映画全体の世界観にまで浸透していく。おもちゃが生命を持つのが、トイストーリーの世界観だった。そして、子どもが遊んでくれるなら、道ばたの石ころでもおもちゃなのであった(だからこそフォーキーには生命が吹き込まれたのだから)。そうすると、世界の物象のすべてが実は生命を持っている(あくまでも原理的には持ちうる)のではないかという疑念が出てこざるをえない。

最後のシーンでは満月の月光が画面にアップになって、妖怪映画のような雰囲気を醸し出して、この映画は終わっていく。

これからはどんなものでも「おもちゃ」になれるのだ。そして、おもちゃはもはや遊んでもらえなくなれば「おもちゃ」ではないのだ。しかし、だとすると、このことは真の意味での「トイ」の「ストーリー」の終焉を意味する。誰でも、どんなものでも、道端の石ころでもおもちゃになれるのだから、「おもちゃ」という概念はもはや骨抜きにされてしまったし、「おもちゃになると生命が吹き込まれる」という設定は「あらゆるものが生命を持ちうるのではないか」という拡張を許すかもしれない。そして、もはや遊ばれなくなったおもちゃは自由なのだ。おもちゃが自分がおもちゃであるという本質規定を失った時、その失意の中で、彼らは自分たちがおもちゃであるという本質を超克できることに気付く。

本作は、「もはや遊んでもらえなくなったおもちゃはどうすればいいのか」という問いに真摯に応えようとした傑作であると思われる。

また、この作品は子どもたちの心に届いている。ウッディだけが、バズライトイヤーだけがおもちゃになりうるのではないのだ。その証拠に、「フォーキー」は、100円ショップに売っている素材だけで作ることができるので、この「フォーキー」を作る子どもたちの動画がYouTube上にたくさんアップロードされ始めている。フォーキーが、売れていたり、大人気になっているだけではなく、実際に作られていることが注目に値する。
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