このレビューはネタバレを含みます
“ダム・キーパー”
この作品のレビューを書くにあたって、まず『木を植えた男』を観ることにしました。
内容については、このレビューの直前に書いているのでご参考にして頂ければと思うのですが、やはり、『ダム・キーパー』で描かれたことと『木を植えた男』で描かれたことは繋がる部分があるのではないかと感じました。
とにかく、とても感動しましたし、思ったことをレビューにしておきたいた思ったので書かせて頂きます。
【繋がる部分】
それは、“誰かが在ることでもたらされていることがある”と言うことではないかと思います。
この作品の中では、ダム・キーパーと言う仕事も、ダム自体もほぼ描かれていません。
しかしながら、彼(少年ピッグ)はダムの上の家に住み、朝夕風車をまわすことで、汚染された空気「くらやみ」から谷あいの小さな町を守っていると言う設定が明確にあります。
【ふたつの意味】
見せないことは違った意味を持たせることだと思います。
僕はふたつの意味を感じました。
ひとつめは、“見せない=当たり前・日常・誰も気にしていない”。
こんなことを意味しているのではないかと感じました。
ふたつめは、見せないことで、“ダム・キーパー”の別の役割を想像させると言う意味があるのではないかと感じました。
【役割】
ひとつめの意味は、まさに『木を植えた男』がそうであったことと似ていて、自分が守られていることも与えられていることも知らないし、気にも留めない人間の悲しい部分を指摘している様な気がします。
ふたつめの意味については、「ダム」が心や涙を比喩しているのではないかと思うのです。
誰かがいてくれることで、傷付かずにすんだり、優しくなれたり、涙を流さずにいられたりする。
まるで守護者の様な存在としてのダム・キーパーと捉えられる気もします。
【ショートフィルムの可能性】
『木を植えた男』のレビューの中で、2人の監督のインタビュー記事を紹介しましたが、堤監督は「可能性」と言う言葉を口にされています。
この作品は社会の問題や、そのことへの指摘、それだけではなくて、人間の本質と問題にまで目を向けています。
そして、一方的に見せるだけではなく、見た側に考えさせることで、作品に大きな広がりを生んでいます。
【さいごに】
『ダム・キーパー』に『木を植えた男』、それ以外にもここ最近は今までに観なかった数のショート・フィルムを観ました。
もちろん、長編映画も観ました。
僕には映画に関する専門知識なんかないし、実際、このレビューで書かせて頂いた様なことを僕の様な人間が書くこと自体申し訳ないし、書いてはいけないのだと思います。
だけど、短編映画でも長編映画でも、“映画”がこんなにも自分で考えることを促し、社会のことや人のこと、心のこと、色んなものの愛おしさも感じさせてくれる。
人の可能性だけでなくて、自分の可能性も感じさせてくれる。
生きている意味があるんだと教えてくれる。
そんな風に思えた時、読まされる側の皆さんに申し訳ないのですが、書かずにはいられませんでした。
僕の解釈なんてとんちんかんなものだろうし、到底、誰かに伝わる様な言葉でもないと思います。
だけど、filmarksを通じて、より映画について考える様になってから今に至るまで、自分の心が少しだけかもしれないけど、成長できた気がするので。
自己満足かもしれないけど、filmarksは共有する場だと僕は思っているので、書かせて頂きました。
やっぱり、映画って素晴らしいです。
長文になってすみません。
ショートフィルムのレビューなのに。
これからも少しずつ。
そして、気付きを与えてくれた『ダム・キーパー』に感謝を。
ありがとう。観て良かった。