Mayuzumi

ナイトクローラーのMayuzumiのレビュー・感想・評価

ナイトクローラー(2014年製作の映画)
4.9
 ギレンホールが我々の前に現れたとき、彼はまだ一介の窃盗犯に過ぎなかった。彼にとって、社会的行為とはただ「他人の物を売る」ことでしかなかった。それが、一躍、カメラマンとしての成功を掴み取るに至る。何が彼を成功に至らしめたのか。彼は窃盗時代を猛省し、その考えの健康化に努めたのだろうか。ところが実際には、彼の考えは窃盗犯だった当時と、根本的に何ひとつ変わることはなかったのである。映画の製作者たちはここに、危険な寓意を秘めたと思われる。
 彼らは恐らくこう言いたいのだ。窃盗行為もスクープ報道も「他人の物を売る」という意味においては同じであり、もしスクープ報道が社会的に認められるならば窃盗もそうあるべきである、つまりは、間違っていたのは窃盗そのものではなく、窃盗の「やり方」だったのだと。本作が真に刺激的な理由はここにある。カメラを担いで夜のロサンゼルスを彷徨うギレンホールに観客が恐怖を感じるとすれば、そこに彼らが潜ませた窃盗犯(犯罪者)のイメージをふいに読み取ってしまうからに他ならない。
 だから、本作をパパラッチの生態を描いた社会派映画などと単純に捉えることは出来ない。寓話のようでありながら、アンチ・ヒーローのサクセスストーリーのようでもある。ギレンホールの一挙一動を、覗き穴から覗き見るような気持になるという意味では、ジェイソン・ボーヒーズの活躍する見世物ホラーのような様相も呈している。映画自体が、我々がギレンホールを覗き見て、さらにその彼がカメラ越しにターゲットを覗き見るというメタ構造のようになっている、というところも見逃せない。
 このカメラ越しに覗き見るという行為には、見る側と見られる側の共犯関係が成り立っている。視聴者とカメラマン(TV)、観客とギレンホールといった、スクリーンの内側において、あるいはスクリーンの内側と外側において、我々がギレンホールの共犯に仕立て上げられてしまうというところに、ただの窃盗犯とカメラマンとの大きな違いがある。それは罪の共有である。罪を視聴者やテレビ局と(もしくは観客と)共有し、自身の犯罪を(窃盗時代に対して)社会化したことにギレンホールの成功があったのではないか。
 これはまさに現代の映画である。我々はすでにギレンホールのカメラを手にしている筈である。ただ窃盗時代の彼のように「使い方」を知らないだけで、気軽にSNSでつぶやくような距離にギレンホールは立って我々を待っている。彼の眼が覗くカメラの闇は、そのまま、我々のもつ現代の眼であるに違いない。