Natsuクルーズ

ナイトクローラーのNatsuクルーズのネタバレレビュー・内容・結末

ナイトクローラー(2014年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

「視聴者は世間の動きを知りたくてニュースを見る。LAの30分ニュース番組で地方行政の話題は、警察、予算、教育、移民問題など含めても平均22秒だ。だが犯罪はトップを飾り、放送時間も平均5分7秒。KWLAは依存度が高い。LAの犯罪率低下で僕の扱う素材は貴重だ。希少動物さ。来月は視聴率の調査期間だよね。君は深夜番のディレクター。しかもLAで最低視聴率の局にいる。僕は、ほぼ優先で君に売ってるが、他に行ってもいい。この関係に注力すべきだ。君は1局に最長2年しかいない。じき、その2年目だ。2年契約なんだろ。来月の視聴率は影響するね。進んで払う額が真の値段。君は画が欲しい。僕は君が。友達は、自分自身へ対する贈り物だろ。」




恐ろしくも美しい、LAの夜。

主人公は、あらゆる人の「破滅」の瞬間に、カメラを持って現れる。

社会のアンダーグラウンドをカメラ越しに覗き見する感覚で、あえて「フィルムノワール」的な演出は避けられている。

「見てはいけないが、見たい」という欲望と、張り詰めた緊張感が延々と続く。

新聞社・雑誌社・放送局などが各地に配置した、その地域のニュースを社に通信する者=ストリンガーを、最前線で活躍する戦場カメラマンや、一匹狼の「傭兵」のように描いている。

不倫や薬にまみれた芸能界のゴシップを、「合法でも違法でも」なんとしてでも入手し、それを連日報道する日本のワイドショーや週刊誌の様に。

それは日々エスカレートしていき、よりセンセーショナルな話題を呼ぶために、時に報道側が「情報操作」をし、「やらせ」や「虚偽報道」に発展する場合もある。

だが、我々視聴者は「真実か嘘か」には興味はなく、嘘に気づける事も無い。

気づけないが、他人の不幸は求めている。

過激さを売りにする報道側にも、それを求め続ける視聴者側にも「罪」があるのかもしれない。

本作は、絶望的な就職難に直面し、心に見えない闇を抱えた若者の視点を通し、世の中の「夜」=「暗部」を鋭い切り口で描いている。

デヴィッド・エアー脚本・監督の『エンド・オブ・ウォッチ』は、ロス市警の全面協力で撮影された「LA犯罪現場最前線」モキュメンタリーでもあり、ジェイク・ギレンホールがロサンゼルス市警察の警察官を演じるファウンド・フッテージ形式の作品だった。

その作品も本作も、主人公が同じ役者とは思えないほど二つの作品での彼の演技は180度異なる。

脚本家でありながら本作で監督に初挑戦したダン・ギルロイは、終わりないバイオレンスを撮りに行く「報道の闇」=「ナイトクローラー」という仕事を通し、世界共通で普遍的な資本主義にまつわる社会問題をシニカルに描いた。

ポスターアートの構図が完全に一致している事から判るように、本作は現代LA版『タクシードライバー』であり、あらゆる場面にオマージュが込められている。

常に「弱みにつけこまれる」立場だった社会的弱者が、どんどん「弱みにつけこむ」立場になっていく。

これ以上落ちる事の無い最底辺から、世の中の人々の感情を揺さぶる立場にまで這い上がる過程で、法を無視した行動力と、人の生死に動じない冷酷さと、歪んだ「欲望」を手中に収めるための貪欲さが剥き出しになっていく。

少しずつ「サイコパス」にも見えてくる主人公の、他人の感情などには全く左右されないし全く興味も無いあらゆる言動にも、本作は「道徳的判断」を下さず、最終的なジャッジは観客に委ねられている。

主人公を見下したり偏見で捉えず、「悪者」という描き方は一切されていない。

初めはどこにでもいる「普通の人」に見え、観客は同情したり共感させられるが、じわりじわりと「何かが変だ」と気づきだし、だんだんと怖くなってくる仕掛け。

「人当たりの良さ」という雰囲気に惹きつけられ、気がついたらちょっと恐ろしい、だがもう嫌いにはなれない・・・と、心理が揺さぶられる。

本作のあらゆる場面で流れる印象的な音楽も、「主人公の頭で流れている音楽」という裏設定がある。

主人公が自らを「自己肯定」しているかの様な明るい音楽ばかりの「脳内サウンドトラック」をイメージしたと監督は語っている。

そして、実際にLAの街に生息している野生のコヨーテのように獲物を求めて夜の街を彷徨う主人公を「ネイチャードキュメンタリー」のように撮影し、今まで描かれていないLAの野生的な面を表現したそうだ。

まるで、捕食する動物の生態を捉えた映像のように、淡々と冷めた中立の視点で。

そのため、まるでロサンゼルスの街中に立っているような、映画を観ていることを忘れる錯覚にも陥る。

視聴率=金のためにジャーナリズムが本来の意義を逸脱していき「やらせ」が横行し、テレビというメディアが狂気に蝕まれていく。

さらに、インターネットという新たなメディアにも負けないよう激しいプレッシャーにさらされ、悪循環の様にテレビニュース番組の競争は激化していく。

最悪は、物語を造りあげろ、でっち上げろ、火のない所に煙を・・・という全方位からの圧力により、報道は「もっと刺激的なもの」ばかりを追求していく事になる。

このように、「メディアの質の低下」が起こる仕組みが、「嘘」と「真実」を織り交ぜて「エンターテインメント」として語られる本作の構造自体にも痛烈な皮肉が込められている。

「映画」というメディアを楽しむ我々も、今では少々のCGやアクションやどんでん返しやバイオレンス描写には驚かなくなっていて、常に「もっと凄いもの」「見たことのないもの」を求め続けている。

本作には「報道」や「人間の欲望」に対しての皮肉がたっぷり込められているが、ある意味これが現実であり「ありのままの世界」なのだ。

より過激なニュースを欲している視聴者がいるから、より過激な報道合戦が起こる。

そして、それが視聴率としてシビアに表れる。

否定も肯定もしない「視点」で、カメラはそれを追い続ける。

我々の生活する現実世界でも、我々が知らない所で、あらゆる分野の「需要と供給」が成り立っている。

ドラッグで儲けている売人、より強いドラッグを欲しがる薬物中毒者。

あらゆる「性癖」に対応する風俗店、より興奮するプレイを要求する客。

本作で描かれている事は、ニュースという報道にも、映画という娯楽にも、その他多くのあらゆる分野にも共通しているテーマだ。

誰もが人生や「自分自身」に悩み苦しみながら生きていて、だからこそ逆に自分の「欲望」をどこかに求め、それを満たしてくれる物に狂った様に執着する。

自尊心を持てなくても、それが「生きている実感」に繋がる事もあるからだ。

本作で描かれた世界は、ほんの一部に過ぎない。

他人の不幸や過激な映像を野次馬のように知りたがっている視聴者。

ニュースや映画にそれを求めて、満たされていく。

それが我々悩める現代人の、「健康的で歪んだ」娯楽の楽しみ方の一つなのだ・・・。




「犯人は、いまだ逃走中。僕らの間に紛れてる。僕に家族がいたら心配で情報を求めるね。この画で皆は君の局を見る。君が好きだ。今後も仕事をしたい。でも僕の要求は1万5000だけじゃない。今後はうちの社名を口頭とテロップで入れてくれ。ニュース配信のVPN。このとおり言うんだ。君のチームにも紹介してくれ。局の上層部とキャスターにも会いたい。局のみんなに僕をVPN社長だと紹介し、過去の映像にも触れろ。それと値段交渉はやめたい。時間のムダだ。僕の言う数字が最低額だ。適切な額だと思ってくれ。それから、僕が何か望んだ時は、それが必要なんだ。2度も言わせるな。君の部屋で過ごす時、要求したことはやれ。前はゴネたろ。さて、おまけだ。フリーカメラマンの事故映像がある。トップになるネタだが、タダであげるよ。取引するかい?」