Natsuクルーズ

映画 聲の形のNatsuクルーズのネタバレレビュー・内容・結末

映画 聲の形(2016年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます



「もしも俺が今日からやらないといけない事があるとしたら、もっとみんなと一緒にいたい。たくさん話をしたり遊んだりしたい。それを手伝ってほしい。君に、生きるのを手伝ってほしい。」





「言葉」は、それを発した人が思っている以上の大きな力を持っている時がある。

人は何かを考えて、その何かを人に伝えたくて、見えない・聞こえない気持ちを「言葉」という形に変換して、相手に贈る。

口から発せられる声はもちろん、鉛筆で書いた文字や、キーボードで打ったメールなど、声を形にしたいろいろな「言葉」があり、その「言葉」によって受け取った人の「心」は大きく揺さぶられる。

もっと視野を広げると、メッセージが込められた絵画や映画や音楽なども「形ある気持ち」=「言葉」であり、時に人を励まし、時に人を不快にさせてしまう。

本作のタイトルで「声」が「聲」という漢字になっているのは、「聲」という文字が「声と手と耳」を組み合わせて出来ているという説に、プラス「気持ちを伝える方法は『声』だけじゃない」という意味も込められているからだ。

「言葉」は、人を勇気づけ、元気にさせ、幸福感を与え、そして、傷つける・・・。

人は人のことを完全に理解できたと思っていても、実は全然判っていなかったりする。

本作のテーマ「人と人が互いに気持ちを伝え合う事の難しさ」そして「どうすれば気持ちを伝え合う事が出来るのか」の答えは、本作の原作者自身もまだ見つけ出せていないほど我々にとっても永遠のパズルだ。

人から人へ「気持ち」を伝える方法は無限にあるのだが、誰もが「ディスコミュニケーション」に陥りがちで、誤解なく真意を伝える事は簡単ではない。

強がってしまい本音と言動が裏腹になったり、恥ずかしさに邪魔されて本心を伝えれない場合も多々あるが、実は内心、過去の過ちを反省していたり、傷付けた相手に許してもらいたかったり、傷付けられた相手をもう許してあげたいと思っていたりする場合もある。

思っている以上に人と人のコミュニケーションは容易ではないのだが、でも実は、ただただみんな「人と人として繋がりたい」だけだったり、「お互いを少しでも知りたい」だけだったりする・・・。





「お前のこえ、聞いてるつもりだったけど、本当に『つもり』なだけだった。当たり前だよな、話してくれる事が全部だなんて、ありえないのに。」





我々が日常的に何気なく使っている「言葉」の数々は、それを受け取った誰かの「脳」と「心」に大きく影響している。

そして、誰かに対し「人を傷付ける言葉」を発した場合、言われた相手はもちろん傷付くが、その言葉を発した自分自身の脳も同時に傷ついてしまうという研究結果がある。

脳科学的に、人間の脳は主語を理解できないと言われていて、主語が理解できないということは、自分が発した言葉の全てを良くも悪くも自分自身の事として受け取ってしまうのだそうだ。

高度な精神活動を担当する「新しい脳=新皮脳」は主語を認識できるが、感情を司る「古い脳=古皮脳」の方は主語を認識できず、新しい脳から送られてくる情報をすべて鵜呑みにしてしまう性質があるのだ。

つまり、他人の悪口を言った場合、自分の発した悪口が聞こえた自分の脳は「自分が悪口を言われた」と勘違いし、それが繰り返されると悪口を言った自分自身の「心」が知らず知らずのうちにどんどん傷ついていく。

悪口を言えば言うほどストレス発散できて気分がスッキリできていると思っていても、知らず知らずのうちに自らの「心」を傷付け、ストレスをどんどん蓄積していく事になる。

逆に言うと、繰り返しポジティブな「良い言葉」を発していれば自分の脳にも大いに良い影響があり、どんどん脳が活性化され冴えてくる。

他人の悪口を日頃から言っている人の脳はどんどん傷付き、退化し、そして鈍くなるという研究結果がそれを裏付けている。





「辛い事があっても、いちいち気にしてちゃだめ。自分の駄目なところも愛して前に進むの。」





普段から悪口ばかりを言っている人の脳は、常に攻撃されている状態になってしまい、ネガティブな言葉が脳にどんどん蓄積され巨大なストレスとなり、それが脳を衰えさせ、脳を老化させるのだ。

本作にも当てはまる登場人物がいるが、人への悪口は、自分の脳に深刻なダメージを与え、自分の心に大きなストレスを蓄積させる。

悪口を言う人の特徴として、ストレスが多くはけ口を持っていない、自分と違うものを受け入れられない、自分が優れた人間だと勘違いしている、人に合わせる八方美人・・・などの共通点がある。

心理学者であるユングの「シャドウ=影の投影」という言葉がある。

シャドウとは、自分自身の認めたくないコンプレックスのことで、人はそれぞれ「光=善」と「影=悪」の両方を持っており、その2つが合わさって一人の人格が形成されている。

他人の悪口を言う人は、他人に「自分の中の嫌な部分」を見出すことによって自らのコンプレックスを刺激され、だからこそ他人を攻撃してしまう傾向にある。

つまり、他人の悪口を言う人はこの「自分の中の認めたくない部分=シャドウ」を、他人の同じ部分に重ね合わせて自ら嫌悪感を抱いているのだ。

それが「いじめ」の仕組みでもある。





「苦しんでるのはあなただけじゃないんだよ?みんな苦しい!苦しんでるの!それが命なの!でもその命は、いちばん大事なんだよ・・・。」





他人の容姿を批判している人は自分の容姿に不満があり、性格を批判する人は自分の中にも似た性格が潜んでいて、家庭環境を否定する人は自分の過去や家族に不満や後悔がある。

自分自身に劣等感を感じている人は「心が弱い」傾向にあり、心が弱いから他人の悪口を言って自我を保ちつつ、それが「いじめ」にまでエスカレートしてしまう場合がある。

心が弱いからこそ他人から「自分のコンプレックス」を攻撃=指摘されないように、先手を打って攻撃的に振る舞い、誰からも攻撃されない様な状況を作り上げる。

自分に自信がなく心が弱い人は、そうやって自分を守らないと自らのアイデンティティを保てないのだ。

他者と比べ、他者を見下すことでしか自分のアイデンティティを保てない状態。

こうして精神的な「負のスパイラル」という底無し沼にはまり、余計に心が成長できなくなる。





「どうやったら自分が昔より成長したって事を証明できるんだろう。」





自分自身に自信がある人は他人の悪口を言わないという傾向にある。

悪口を言わない人は、人の「良い部分」を見ること=気付くことができる。

他人の悪いところばかりが気になる人、悪口ばかりを言う人は、自らの「弱さ」や「弱点」に気付き、それを受け入れる事ができれば、その負の連鎖を打破し、「強さ」を手に入れることができる。

人は良い部分と悪い部分両方を持っていて当たり前だ、という事実に気付くか気付かないかで、人生は大きく変わる。

「言葉」は、人を勇気づけ、元気にさせ、幸福感を与え、そして、傷つける・・・。

人は人のことを完全に理解できたと思っていても、全然判っていなかったりする。

我々が日常的に何気なく使っている「言葉」の数々が、誰かの「脳」と「心」に大きく影響している。

そして、誰かに「人を傷つける言葉」を発した場合、その言葉を発した自分自身の脳も傷ついてしまうと言われている。

もちろん、その「言葉」を言われた側は、その何倍も、何十倍も、深く、傷ついている・・・。

『聲の形』という名のメッセージである本作も、漫画・映画という「言葉」で表現されている。

その「言葉」は恐らく、国境を超え、人種や性別も関係なく、世界中の人の耳に届き、多くの人々の心に残るだろう。

時に人を感動させるかもしれないし、時に人のトラウマに触れ傷付けてしまうかもしれない。

本作を観て以来、少なくとも私の心には、物語の余韻と共に今も『聲の形』という「言葉」が深く突き刺さったままで、まだ一人ではとても引き抜けそうもない。

「言葉」は、それを発した人が思っている以上の大きな力を持っている時がある・・・。





「行こう、今日からちゃんと。みんなの顔を見て『おはよう』って言うんだ。そして聞くんだ、みんなの声を。良いことも、悪いことも。」