Natsuクルーズ

シン・ゴジラのNatsuクルーズのネタバレレビュー・内容・結末

シン・ゴジラ(2016年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

【IMAX版】




「出世に無縁な霞ヶ関のはぐれ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、学会の異端視、そういった人間の集まりだ。気にせず好きにやってくれ。」




1945年、人類史上初、そして世界で唯一「核兵器」が実戦使用された、広島市と長崎市への原子爆弾投下。

それから10年も経たない1954年に東宝が公開した「特撮怪獣映画」=『ゴジラ』は、生々しく残る核兵器への恐怖と怒りと悲しみが込められていた。

2011年、東日本大震災で我々が経験した悲劇の恐怖と悲しみも、永遠に消える事はなく、今も続いている。

2014年に公開され、本作『シン・ゴジラ』より早く「原発の危うさ」も込められていたハリウッド版『GODZILLA/ゴジラ』に出演した渡辺謙は「いま日本映画にはゴジラに託して発信すべきテーマがあるはずなのに、海外に先を越されて悔しい」と語った。

そのゴジラが、ついに日本で12年ぶりに復活した。

今は失われつつある日本娯楽映画における「特撮」のスピリットを本作で体感すると、実写映画版『進撃の巨人』に込められた特撮への気持ちの良い心意気も改めて思い出される。

『フランケンシュタインの怪獣/サンダ対ガイラ』や『ガメラ』や『大魔神』、『ゴジラ対ヘドラ』におけるトラウマ級の「赤ちゃん」場面を筆頭に、数え切れないほど多くの特撮映画オマージュ、大袈裟な芝居、荒唐無稽な展開、「東宝特撮映画風のタイトル文字」で締めくくられるラストショット、それらの特徴的なピースで構成されていた『進撃の巨人』には、特撮愛に溢れる樋口監督の真骨頂とも言うべき「現代に蘇る特撮の魂」がたくさん詰まっていた。

過去の日本特撮モノのトラウマを呼び起こす巨人による「阿鼻叫喚の地獄絵図」や、巨人vs巨人による都市破壊バトル、「エレンゲリオン」とも呼ばれた『ヱヴァンゲリヲン』の風味、恐ろしく禍々しい雰囲気の全編ダークな色調、良い意味でチープにも大袈裟にも見える「あえての」古臭くベタな人間ドラマ・・・など、『ウルトラマン』や『ガメラ』等の「特撮映画」が、現代の最先端CG映像の技術なども良いバランスでミックスされ再現されていた。




「大臣、先の戦争では旧日本軍の希望的観測、机上の空論、こうあってほしいという発想などにしがみついた為に、国民に300万人以上の犠牲者が出ています。根拠の無い楽観は禁物です。」




本作『シン・ゴジラ』で現代の新たなるゴジラを創造するにあたり、庵野総監督と樋口監督には初代ゴジラ映画から始まったスーツアクターやミニチュアセットなどを活用した撮影方法=「特撮」の伝統を継承したいという強い思いがあった。

当初『進撃の巨人』の様に特撮とCGのハイブリッドも検討されたが、作品の世界観に合わせて、CGキャラクターが持つ「人間的ではない部分」=「無機質な部分」を生かし、人間的な意思や意図をあえて削り取るために、日本製ゴジラ初の「フルCGゴジラ」が誕生した。

本シリーズは、時代の変遷とともにゴジラを正義の味方、人間の仲間として描く傾向になっていったが、本作『シン・ゴジラ』では第1作の原点へと立ち返り、東京を蹂躙する禍々しい厄災=「人間の敵」としてのゴジラが強調され、オリジナル版『ゴジラ』の恐怖にさらに不気味さや禍々しさを大幅にプラスし、純粋な恐ろしさが惜しみなく注ぎ込まれている。

「怪獣映画の完成度、素晴らしさは最初の『ゴジラ』に集約されている」とコメントしている庵野総監督は、「怪獣映画は初代『ゴジラ』があれば十分だ」という理由で最初は東宝のオファーを断ったが、初代ゴジラの面白さと衝撃に少しでも近付く作品を新たに創造したいという思いが芽生え、この挑戦を受けて立つことにしたそうだ。




「そう、生物です。だから人の力で駆除することができます。同じ自然災害と区分しても、地震や台風とは違います。」




そして、庵野総監督の「実際にゴジラが東京に現れたら政府はどんな対応をとるかを現実に基づいて描く」という方向性で本作の制作はスタートした。

『ヱヴァンゲリヲン』シリーズの生みの親である庵野秀明が脚本・総監督、平成『ガメラ』三部作や『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の樋口真嗣が監督・特技監督を務め、3監督・4班体制、総勢1000人以上のスタッフ、長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ、高良健吾、日本中を虜にした「尾頭ヒロミ課長補佐」役の市川実日子、音楽の鷺巣詩郎を含む『進撃の巨人』からの多くの続投組たち、総勢328名にも及ぶ「日本を代表する役者たち」が大集結。

庵野総監督が提示した『シン・ゴジラ』のコンセプトは、地球に住むあらゆる生き物たちで形成されたピラミッドの頂点に位置する存在としての「完全生物」だった。

その新たなるゴジラのイメージを、『ガメラ3/邪神覚醒』や『巨神兵東京に現わる』の雛型模型などを手がけ国際的に高く評価されている造形家の竹谷隆之が、ゴジラコンセプトデザイン担当の前田真宏のコンセプトスケッチをもとに、そして「初代ゴジラのフィギュア」をベースにし、図面ではなく立体物として完成させた。

あらゆる生き物の中で「人の目」がいちばん恐いという理由から、ゴジラの目は「人の目」がイメージされ、白目と黒目の比率までとても慎重に調整されている。

皮膚の形状は「ゴーヤ」などを参考にし、皮膚の隙間から覗く強烈な「赤色」は痛々しく「血」と「マグマ」、頭部は「きのこ雲」のイメージも取り入れられている。

それらを、ハリウッド版『GODZILLA/ゴジラ』の総製作費の十数分の一以下の予算の中で仕上げている。




「総理、会見の際は不確実な憶測ではなく確実な情報だけを公表すべきです。」




実写版『トランスフォーマー』シリーズでマイケル・ベイ監督は「実際に地球外生命体が攻めてきた場合に米軍はどう対処するか」を長い時間をかけて徹底的に取材し、政府の言動や兵器の使用方法や軍事戦略に至るまで、極限までリアルさを追求して作品に反映させた。

本作でもそのスピリットは全く同じで、政治システム、政治学などを含めた政治的事件を描く語り口である「ポリティカル・フィクション」のスタイルで展開し、「ゴジラ」=「想定外の未曾有の危機の象徴」としてゴジラを現実的な「災害」とダブらせ、その上で政府や自衛隊の言動を描いている。

現代日本で今、予測できない大災害が起きたとき、「組織」がどう動くのか。

巨大な生物が実際に現れた場合、自衛隊は「防衛出動」になるのか「治安出動」になるのか、どのような武器で対処するのか・・・。

まるでドキュメンタリーの様な「リアルシミュレーション映画」を目指し、実際に巨大生物が現れたら自衛隊はどう動くのか、庵野総監督は脚本執筆の段階から「防衛省」に協力を要請し、何度も行われた自衛隊員や役人とのミーティングで、自衛隊員による兵器の運用の仕方から政治家たちが実際に使う専門用語の言いまわしまで、徹底したリサーチが行われた。

それは、物語や設定のディティールだけでなく、政治家ならではの口調などは「俳優たちの演技」にも存分に生かされている。

戦車による攻撃シーンのリサーチのために、陸上自衛隊による富士総合火力演習にカメラを持ち込んで撮影も行い、それをCGで補強する合成素材としても使用している。




「まずは君が落ち着け。」




刻々と変化するゴジラによる「災害」の状況に政府がどう対処してゆくのかは、官邸危機管理センターに「官邸対策室」が設置された事などの過去の事例に基づいて構成されている。

庵野総監督は脚本執筆中、疑問が湧くとその都度「政府機関・官僚」などに確認し、どんな些細な事でも事実と異なることがあれば修正を加え、脚本のリアリティをどんどん高めていったそうだ。

ゴジラに対する「巨大不明生物」という呼び方も、取材の中で聞いた官僚の発言が参考にされている。

それらを踏まえて「もしも日本に巨大生物が現れたら」というストーリーに「東日本大震災以降の世相」までもを巧みに取り込み、リアリティを追求した災害シミュレーション映画に仕上げている。

1954年の初代『ゴジラ』は、「核の落とし子」であり「戦争」の象徴だった。

新たなゴジラは、東日本大震災を経験した今の日本を覆う不安感を色濃く反映している。

本作でも、同じく「放射能」や「原発」のメタファーであるゴジラが日本の首都で破壊の限りを尽くす。

そのクライマックスは、東日本大震災で制御不能となり爆発した「原発事故」の恐ろしさがどうしてもオーバーラップしてくる。

上映時間の大半を占める「政治家や官僚の会議と混乱」や「とても追いきれない情報過多な説明テロップ」が連続する構成をみても、膨大なリサーチを元に生々しく描写されている事が判る。

だからこそ絶望的な「圧倒的カタストロフィ」の都市破壊描写も用意されている。

そんな中、実写版『アイアムアヒーロー』と同様に、ゴジラ出現で各テレビ局が緊急特番を放送している状況で、一局だけアニメを放送しているという「テレ東」を皮肉ったシーンなど、細かいネタも多々ある。




「それ、どこの役所に言ってるんですか?」




本作は、最初から最後までの全てのシーンが名場面で、全てのセリフが名台詞と言われるほど熱狂的ムーブメントが起きている。

ネットには名台詞をまとめたサイトが溢れ、鑑賞後の客はみな名場面のモノマネをしながら笑い合い、興奮気味に劇場を後にしている。

日本映画が失いかけていた「娯楽」としての映画、そして、純粋に楽しめる「エンターテインメント」の精神、それらを思い出させてくれる本作を上映している日本中の劇場はいま、「映画愛」に溢れた熱気で包まれている。

ここまでの社会現象を生んだ巨大生物映画は、本作以前には存在していない。

高層ビルの多い現代の街並みに出没する新たなるゴジラの体長は、旧日本海軍が保有していた特型駆逐艦や陽炎型駆逐艦の全長と全く同じ「118.5メートル」という設定で、初代ゴジラの2倍以上ある。

劇中のセリフの通り、制作スタッフがこの重さを自重で支えられるのかを現実的に検討した結果、2本足で歩くのは困難だということが判り、尻尾を太く、そして長くデザインされた。

3時間を超えてもおかしくない「シーン数約350」というボリュームを2時間に集約した本作で様々なアングルから撮影を行った庵野総監督。

監督が完璧に思い描いた「予定通りのカット数」をこなすため、壁を取り外したり、低い位置から撮れるよう天井を足すなど、セットデザインにはスタッフ達の苦労と工夫が盛り込まれている。

庵野監督が想定しているカット数をこなすため、壁をバラしてカメラを置けるようになっているセットは「バラすのに15分、もとに戻すのに20分以内で」との支持まであったそうだ。




「今は戻らない。祖母を不幸にした原爆を、この国に3度も落とす行為は、私の祖国にさせたくないから。」




通常のカメラ3台プラス小型カメラやiPhoneなど、7つのカメラで同時に撮ることもあったという驚きの撮影現場。

カメラアングルは、画コンテやプレビズを作成し細部まで事前にプランを組み立て、セットも多彩なカメラアングルに対応できるようデザインされたほど庵野総監督は「空間をどう切り取るか」を最も重視していたそうだ。

今まで映画におけるゴジラの結末といえば、ゴジラが「倒された」かのように見えるか、ゴジラが「海に帰っていく」のがお約束の展開だった。

しかし本作の「神」のように圧倒的な存在であるゴジラに対峙する人間たちのドラマは、今の「危うい日本」を象徴する様に、シリーズで初めて「当面の解決」=「保留付きの解決」で幕を閉じる。

いつそれが再び「人類の驚異」となり、我々の前に立ちはだかるかは誰にも判らない。

十年後かもしれないし、明日かもしれない・・・。

まさに、日本がいま直面している数々の問題と見事に重なり合い、本作のエンドロールは始まる。

1945年、人類史上初、そして世界で唯一「核兵器」が実戦使用された、広島市と長崎市への原子爆弾投下。

それから10年も経たない1954年に東宝が公開した「特撮怪獣映画」=『ゴジラ』は、生々しく残る核兵器への恐怖と怒りと悲しみが込められていた。

2011年、東日本大震災で我々が経験した悲劇の恐怖と悲しみも、永遠に消える事はなく、今も続いている。

これから日本人は、人類は、「当面の解決」という「保証の無い安全」を信じながら、それとどう向き合い、どう戦って生きてゆけば良いのだろうか・・・。




「ゴジラより怖いのは、私たち人間ね。」