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ヒロシマナガサキのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

ヒロシマナガサキ(2007年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

 証言録。今を生きる若者、被爆者、キリシタンの被爆者、韓国人の被爆者、アメリカに渡った被爆者、原爆に携わった科学者、原爆を整備した者、彼らの意見が並列して並べられることで、原爆が多角的にあぶり出されると共に、証言が摩擦を起こし、そこに深い溝を見て取れる。スティーヴン・オカザキはメッセージを作り上げるためにあるのではなく、ただそこに証言があるように作ったとDVD付属冊子にて記していた。それもそのはずで、映画的な試作などなくとも十分に彼らの証言が物語るのである。

 まとめると被爆者という被害者と落とした側の加害者とで二分されるだろう。よく語ってくれたと思う凄惨な体験に都度涙ぐんでしまった。ケロイドにならなかったら今頃どう生きてただろうと想像する話や、学校で唯一生き残り、その他620名が全て亡くなったという話、ショックから亡くなった妹の名をもう呼ぶことができない話、これらは普通に生きてて起きるショックの度を超えていて、声を詰まらせながらも話す姿には、生きているのだから苦しくても語り継がねばという強さを見た。また実際に痛ましい当時の姿から、現在までそれを引きづる姿も見られ、今度は精神面だけでなく身体として永遠に傷が癒えないことが映し出される。是非とも聞くべき証言が沢山あり、それが撮影されたというだけでこの作品は価値がある。現に被爆後77年を迎え、今作に出演した被爆者で既に亡くなられた方も多い(オバマ大統領に訴えかけた坪井直も去年亡くなっている)。また実際に原爆資料館の中でも語られているが一般に認知されていない韓国人の被爆者も出演している。日本とアメリカという構造を超えて無慈悲に無差別に落とされたということが、また韓国人という日本でのマイノリティ故の苦しみが語られており、これもまた重要な証言だと思った(ちなみに原爆資料館の資料によれば、駐留外国人も被曝している)。

 それに対し、やはりアメリカ側の意見には無情さがある。「やれと言われたからやったまでだ」(まさにナチス幹部アイヒマン的な加害者の無責任さ!)、「悪夢は見ないね」という素っ気ない返答には怒りが湧いてくる。並列に並べられた証言だからこそ、その温度差は歴然となる。被爆した少女たちを”原爆乙女”としてアメリカに連れてきて治療するという行為の欺瞞。ちゃんと戦後処理をしているというアピール。しかしなぜ乙女に限ったのか、という疑問を考えれば、明らかに”映える”からであり、それを選別するという冷酷さも浮かび上がる。また被爆した牧師、谷本清とエノラ・ゲイの副操縦士、ロバート・A・ルイスとを対面させるアメリカのテレビ番組も、その偽善、欺瞞ったらありゃしない。ルイスはその場で勤め先から寄付をすることを誓い、硬い握手をする。谷本は牧師然として、また日本人らしい温厚さを持って笑顔で握手した。しかし、モノクロの古く歪んだ映像でもわかるぐらいには、彼の目は涙ぐんでいた。実際に被爆した人も呼ばれたが、”顔を出したくない”とのことでシルエットで出演。このTVショーを見た人は、被害状況はよくわからないが罪を償う態度に感銘を受けるだけで、原爆の決断は正しいというアメリカ的な意見は覆らないだろう。谷本清もまたキリスト教の牧師ということで、許したのだろう。その寛容な態度さえもこの欺瞞の前では大した効果も恐らく無いという絶望。今作、被爆者とアメリカ人の対話はこのシーンだけだが、やはり温度差がひどい。

 ここで苦しいのが、被爆しつつもアメリカに原爆少女として渡って向こうに帰化した笹森恵子の存在である。彼女は上記のTVを見て、ルイス副操縦士が涙する姿に(実際は顔をうつ向けただけで谷本ほど泣いていたようには見えなかった)、「感動した」と語っていた。アメリカ人と触れ、優しさに触れ、笹森はアメリカへの憎しみを持たなくなっている、その違和感。人間って近くで触れ合えば大概は優しいものである。しかし、空からポーンと爆弾を放り出すだけの行為に人間が下にいっぱいいるなんて考えは無いのである。この日本からアメリカに渡ったというアイデンティティの揺れ。彼女を見ると、もはや物事は二分化してすっきり語るのもできない複雑さなんだと気がつく。形成手術を受けて治ったという笹森。しかしその回数は30回越え。これはアメリカが当初比較的簡単に被爆の治療をできるという甘い見立てがあったせいだと思われる。やはりケロイドの傷は完全には消えていない。もっと言えば形成だけでなく放射能治療も現在の医療でどうこうできはしない。この見た目にこだわり内側を捨てる合理主義的なアメリカの判断を、彼女の姿を通して私は憎んだ。

 映画はなぜか始まりと終わりに東京の都心をえらんだ、しかもなぜか路上パフォーマンス。彼らの無知さを論うインタビューの視点には強引さを感じる。そういえば監督はアメリカ出身の日系三世でパンクバンドとかやってたとか。この日本の都心でやたら路上パフォーマンスする姿を映してるのはそういう同族嫌悪的な部分があるのだろうか。またそうした音楽的趣向からか、被爆地の当時の写真に流れる音楽が微妙であった。ロックに裏打ちされてもあの軽い音楽では語れぬ映像なのだ、あれは。

 というか平成の日本ってどこか白痴的な様相を帯びていて、海外の映画監督が東京を舞台に撮影したオムニバス映画「Tokyo!」もちょっとそのきらいがある。若者の白痴さを彼ら自身にいくら向けても、見てる側の溜飲を下げる程度だ。本来は、この日本という国がそれを推し進めているという事実ではなかろうか。もっと元を辿ればアメリカが戦後日本を大衆娯楽を持って骨抜きにしようとすることが発端だ。アメリカによる日本を骨抜きにしたい思いと、過去の日本の敗北を忘れ戦争に神話をもたらしたい一部政治家の思いは、ここで奇妙に合致する。まじで政治家とは気が狂った人しかいないのか。血も涙も無いのか。
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