ベイビー

怒りのベイビーのレビュー・感想・評価

怒り(2016年製作の映画)
3.8
この映画の巧みなところは、冒頭で犯人のシルエットを見せ付け、そのあとで容疑者らしき人物を全く違う場所で三人登場させるところです。

私たちは、冒頭に見たシルエットと素性の分からなさから、三人の男を疑いはじめます。「犯人は誰か?」「怒の文字の真意は何か?」「男たちの素性な何なのか?」と物語が進むたびに、疑問が膨らみ、サスペンスが幾重にも重なり合う。それを追うのは刑事ではありません。三つの異なる物語が、答えを導いてくれるのです。

それぞれの物語のなかで、男たちを疑いはじめるのは、物語を追う私たちだけでなく、彼らに関わる人達も一緒です。彼らと出会い、関わり、好意を持ち始める。その先にあるのは「信じたい」という願いです。しかし、一見美しく思えるその願いこそ、悲しみを連鎖させてしまいます。

何かの話の中で、「信じるという行為自体、すでにその人を疑っている行為だ」と言っていました。その人のことを想うからこそ信じたいという行為が生まれるのですが、突き詰めていけばそれは猜疑心の表れと同じで、「信じる=疑っている」というロジックが当てはまってしまいます。

人は自分が疑われていると感じれば、心を閉ざしてしまうのは当然で、特に素性を隠し、過去を隠して秘密を抱え孤独に生きてきた男たちにとって、信頼している人から疑われた悲しみは心の痛みとなり、一層自分を孤独にさせます。相手が疑う気持ちは、自分でコントロールできるはずもありません。そのやり場のない悲しみは、いずれ「怒り」へと変わっていくのだと思います。

この映画で描きたかった「怒り」は、決して犯人が血で書き殴った「怒」の文字を表したのではないと思います。三人の容疑者らしき男たちをもとに、人が抱く怒りのメカニズムを描きたかったのだと思います。

彼らは人から信じてもらえない悲しみから、人から離れ、心を閉ざし、孤独になり、悲しみのはけ口を失い、それを怒りに変えていきました。(そして真犯人は、怒りを吐き出し、弱者が怯え苦しむことで解消していた)やがてその怒りは新たな悲しみを生み、彼らを信じる人たちに伝染し、悲しみは連鎖していきます。

それぞれ彼らに関わった人達は、人を救えなかった嘆き、人を疑った悲しみ、人を信じてしまった憤りを抱き苦しみます。それは、全て誰にも共有できず、他人にはコントロールしてもらえない、自分自身への苛立ちです。その苛立ちを抱え、悲しみ、憤り、人は自分に怒りを感じてしまうのです。
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