映画ネズミ

スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明けの映画ネズミのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

向いている人:スター・ウォーズをこれまで見たことがある人

向いていない人:銀河を冒険する話自体が苦手な人


 いよいよ、本作のデジタル配信が開始されました。本作を、とある事情で公開初日に見れなかったのですが、何とか上映終了直前に劇場で見ることができました。スター・ウォーズとなると、私、どうしても熱くなってしまいます。普段の感想とテンションが違いますが、ご了承ください。


(ネズミとスター・ウォーズの出会い)

 元々、親が録画していた「スター・ウォーズ」を見せてくれたことがきっかけです。見たことがない世界の魅力に一気に引きつけられました。
 時は1997年。初めての洋画として、「ジェダイの復讐/特別編」に行きました。
 アナログ特撮の最新進化形というべき、エンドアの戦いの圧倒的なスケール感。
 ジャバ・ザ・ハット、アクバー提督、イウォークたち、銀河皇帝といった魅力的なキャラクターたち。
 お父さんが最後に両親を取り戻して息子を救い、銀河に平和をもたらす、という熱い物語。

 「ジェダイの復讐」は、初めて映画館で見た「スター・ウォーズ」というだけでなく、いろいろな意味で、シリーズで一番思い入れがあり、お気に入りの作品です。

 それ以降、プリクエル3部作など、新作が公開されるたびに見に行って、今ではすっかり、冒頭の「ジャーン!」というテーマ曲が鳴り響いただけで、背筋に電流が走るような興奮を覚える生粋のファンです。そういうファンが書いている感想だということを前提に、以下、お読みください。


(いいところ)

1 カイロ・レンが良かった!
 前作「最後のジェダイ」からメキメキ良くなったアダム・ドライバー。
 本作では、もう迷いはありません。自分の行く手を阻む者を片っ端から切って捨てる、暴君と化しています。自分の父を手に掛けたときの、ぐらついているカイロ・レンの姿はありません。
 そんな彼が、レイとの再会、宿命の対決を通して、再び別人のように変化していく過程は、本当に素晴らしかったです。同じ俳優なのに、まるで違う人に見える。役者の演技の真髄を見た気がします。
 カイロ・レンの心の旅を見れたことこそ、このシリーズの最大の収穫でした。


2 今回の音楽は「スター・ウォーズ」メドレー!
 今回、ジョン・ウィリアムズの音楽は、最終章にふさわしく、過去のシリーズの名曲が次々とかかります。
 もちろん、シークエル3部作特有のテーマ曲もかかって、この3部作の最終章感も盛大に演出してくれます。
 エンド・クレジットの音楽は、まさに過去の名曲メドレー。
 この音楽を聴くためだけでも、一見の価値ありです。ジョン・ウィリアムズも、いい仕事をしてくれました。


3 レイア姫最後の勇姿に涙……。
 キャリー・フィッシャ―が2017年に亡くなり、本作では、過去2作のフッテージ映像を使うことになりました。
 そのせいか、レイアの登場場面はやけにぶつ切り感がありました。
 でも、かえってレイア姫をもう見れないんだ、という寂しさがありました。
 最後の勇姿、しかと目に焼き付けました。


4 きちんと完結させた!
 何より今回、「最後のジェダイ」のエンディングから大胆に軌道修正し、
 旧3部作を含む「スカイウォーカー・サーガ」の「完結篇」と自ら高いハードルを課して、息も絶え絶えになりながらも何とかエンディングにこぎつけました。
 今までシリーズに付き合ってきた身からすると、「お疲れ様!」と言いたいです。
 限りなく不可能に近い中、シリーズを始めて、きちんとオチを付けたことは、それだけで偉大だと思います。
 「最後のジェダイ」で終わったんじゃ、落ち着いて眠れませんからね。


(シークエル3部作の総括)

 さて、本作を見て、シークエル3部作(エピソード7~9)への自分なりの評価が固まったので、以下、うざいくらいに書いていきます。ここからは、被害妄想を含め、かなり偏った意見になりますので、不快に思われる方もいらっしゃると思いますが、ご了承ください。


1 誰も「ジェダイの復讐」を大切にしてくれていない
 「フォースの覚醒」でカイロ・レンがダース・ベイダーのマスクの前にひざまずいていた場面を覚えていますか?「あなたが始めたことを終わらせる」。カイロ・レンは、ダース・ベイダーが光の誘惑に負けて、銀河を闇で覆うという目標を前に挫折したと思っていました。カイロ・レンが目指すダース・ベイダーの姿は、「帝国の逆襲」までの「強いベイダー」だったのです。カイロ・レンのことは好きですが、「ジェダイの復讐」をちゃんと見ていないのはいただけません。
 その後、「最後のジェダイ」における、ルーク、アクバー提督のあんまりな扱いと、あんまりな最期。
 そして、本作「スカイウォーカーの夜明け」に至って、アナキンとルークが成し遂げたことをすべて無にするようなパルパティーン復活と、ランド、ナイン・ナンの扱い。
 こういうところを見ると、シークエル3部作の製作陣が「新たなる希望」「帝国の逆襲」が好きなことは分かったけど、「ジェダイの復讐」に対してもきちんとリスペクトを払ってくれていたのか? と疑問に思わざるを得ません。本作ラスト近くの、イウォークの取ってつけたような登場で許されるものじゃないぞ!
 本作によって、アナキンも無駄死に、ルークも無駄死に、ウェッジとランドの活躍も無駄に……。


2 仕事ばかりしてないで、家族の面倒もきちんと見ましょう
 本作で明らかになった真相。皇帝が、自分の血を引いているのに能力を発現させないダメ息子を放置していたら、そいつの娘(=自分の孫)に刺された……。あの抜け目のない皇帝が、自分の家族をほって仕事に没頭した余りしっぺ返しを食らうって、どういうこと!?
 仕事のし過ぎはよくありません。家族サービスもきちんとしましょう、というのが教訓でしょうか。


3 行ってみたい惑星がひとつもない
 旧3部作には、タトゥイーン、ホス、ダゴバ、べスピン、エンドアといった魅力あふれる惑星が登場しました。プリクエル3部作では、ナブー、コルサント、カミーノ、ジオノーシス、ウータパウ、キャッシーク、ムスタファ―という、特色ある惑星が多数登場しました。
 今でもこういった名前を思い出せるのは、無駄とも思える時間を使って、その惑星と、そこに生きる人々の暮らしを紹介する描写を丁寧に入れていたからです。
 しかし、シークエル3部作で覚えているのは、ジャクーと、ルークがいた島の惑星、「最後のジェダイ」に出てきた塩の惑星、そして本作のラストに出てくるエクセゴルだけです。それ以外の惑星も色々と出てきましたが、画面に映っている以外の世界を全く感じませんでした。これは、惑星の名前が紹介されないだけでなく、その惑星の生活を見せる場面がまったくないため、お話を進めるための背景としてしか機能していないからです。
 「スター・ウォーズ」であるなら、冒険の舞台に「行ってみたい!」と思わせてほしかったです。


4 「太陽」問題
 「スター・ウォーズ」1作目。タトゥイーンで、帝国アカデミーに通いたいのに叔父に止められたルークが見たタトゥイーンの双子の太陽。スター・ウォーズの物語はそこから始まりました。
 「エピソードⅢ」のラスト。幼子のルークを抱いて、叔父母が見る双子の太陽。1作目の太陽を思い出しつつ、アナキンと銀河がたどった悲劇と、その中に残されたわずかな希望、その後に待っている反撃の物語。様々な思いがこみ上げる「太陽」でした。
 スター・ウォーズにとって「太陽」は、特別な意味があるのです。

 さて、シークエル3部作では、「太陽」が3回出てきます。
 まず、「フォースの覚醒」では、ジャクーの夕焼けをレイのスピーダーが横切ります。この場面は、単に日が暮れたということを示す機能しか持っていない、空虚な「太陽」でした。
 次に、「最後のジェダイ」では、ルークがいまわの際に双子の太陽を眺め、そして最期を迎えます。ルークにとっては、タトゥイーンで見た夕陽を思い出させるものだったのでしょうが、それまでの間に、彼が命を懸ける価値のある物語を紡いでいないので、空虚な「太陽」でした。
 本作では、タトゥイーンを訪れたレイが、地平線から昇る太陽をBB-8と共に見つめる場面で終わります。あたかもここから新しい物語が始まるかのようです。
 その直前の場面。ルークとレイアのライトセーバーを、ルークの実家のある場所に埋めるのです。しかし、ファンなら分かっています。あの場所は、ルークにとっていい思い出は一つもないと。ましてレイアは、行ったことすらないはずです。あの場所は、確かにスカイウォーカー家の原点ですが、その呪いを象徴する場所でもあります。そんな場所に、それを埋める。これっていいのでしょうか?
 私には、最後にタトゥイーンの「太陽」を映せば、なんとなくまとまった感じがするし、ファンも泣いてくれるだろうからという忖度以上の理由が見当たらないのです。
 結局、シークエル3部作は、スター・ウォーズの中で最も重要な「太陽」を、3回にわたって無駄遣いしてしまったのです。


5 きみは「スカイウォーカー」ではない
 元々「スター・ウォーズ」は、銀河の外れに住む誰でもない青年が、銀河を救う話でした。
 それが、プリクエル3部作になって、「血筋」の話になってしまいました。
 ディズニーの「スター・ウォーズ」も、「血筋」から脱却しようとしていたはずでした。
 「フォースの覚醒」では、レイは、誰でもない人でした。
 「最後のジェダイ」で、カイロ・レンは、自らの血筋を断ち切って、自分の意思と力で世界を切り開こうとしていました。
 スピンオフの「ローグ・ワン」では、特別な能力を持たない人たちが頑張っていました。
 しかし、本作で、レイは皇帝の血筋の子だと分かり、最後に「レイ・スカイウォーカー」と名乗ります。
 レイはスカイウォーカー家の人間ではない、というのはさておいて、このシリーズは、「血筋に関係なく、自らの意思と力で未来を切り開いていく人々の話」だったはずです。
 それなら、レイも、パルパティーンの血を引きながら、彼とは違う道を歩む、ということを強調すべきではなかったのでしょうか。
 レイが「スカイウォーカー」と名乗ることによって、結局「血筋」の話に落とし込んでいませんか。
 最後は「ただのレイ」というか、「レイ・パルパティーン」と名乗れば、血筋を受け止めながら自分で道を開く決意を固めたところが強調できたのではないでしょうか。


6 先の見えないシリーズ
 「フォースの覚醒」は、世界中にいる旧3部作のファンを納得させるためには必要な作品でした。新しい物語を始めるためには、旧3部作のオチのその後を描かなければいけない、というのは、納得です。
 ところが、今思い返すと、気になる点もありました。スノーク、マズ・カナタ、ファースト・オーダー。出所が分からないし、物語上の立ち位置もよく分からないキャラや組織が多すぎたのです。
 そうした面倒な点をすべて引き継がざるを得なかった「最後のジェダイ」は気の毒な映画でした。「フォースの覚醒」から、カイロ・レンを中心に据えて話を進めるとするならば、あのようにするしかなかったのだろうという面もあります。しかし、ローズ、ホルド提督、DJなど新たなキャラも、いい要素はあるのに、立ち位置がはっきりしないモブキャラになってしまいました。
 本作でも、さらに多くの新キャラが登場します。
 キャラクターを増やして作品世界に奥行きを持たせようとしたのでしょうが、結局、それぞれがお話を進めるためにしか登場しないため、作品世界の奥行きも感じないことになってしまいました。
 そんな中で際立つのは、ファースト・オーダーの兵器のデザインに現れているような、旧3部作への異常な気遣いです。気遣ってくれるのはいいのですが、せっかく「フォースの覚醒」で新しい世代にバトンを渡したのだから、あとはファンのことを気にせず、伝説が終わった後の世代でも、新しい物語を作れるんだ! という気概を見せてほしかったです。
 作り手が、「旧3部作ファンを怒らせないように、とりあえずこれは出しておこう」という謎の忖度を繰り返した結果、本作のルーク、ハン・ソロ、レイア、ランド、ウェッジは、登場する意味がまったくないキャラクターになってしまいました。
 結局、その原因は、このシリーズをどのように展開させ、どのように締めくくるのか、作り手がきちんと意思統一ができていなかったのだろう、と思います。
 同じディズニー系列でも、「アベンジャーズ」を始めとするマーベル・ユニバース作品と比べると、残酷なくらいの差があります。あちらは、監督の個性を殺してまで作品同士の統一性を確保し、ひとつの方向性に向かって強力に引っ張っていく強権的なプロデューサーの、見事な指導力があったから、「エンドゲーム」でみんなが喜ぶ大団円を迎えることができました。
 こちらは? 「監督の個性を生かす」という方針と、「ファンへの気遣い」の間で揺れ動き続け、目的も定まらないまま、とりあえず監督交代、再撮影を行ってテコ入れをしましたが、結局、方向性をバチッと打ち出す指導力あるプロデューサーもおらず、J・J・エイブラムスがすべて背負わされることになってしまいました。中身のない、空虚なシリーズになってしまったと思います。これまでの問題先送りのしわ寄せが、本作で一気に押し寄せたのです。


7 スター・ウォーズ大好き!
 結果として、シークエル3部作は残念でしたが、スカイウォーカー家の物語にとりあえずオチを付けた、という意味では、意義深い作品だったと思います。
 ほかにも、カイロ・レンをはじめ、レイ、フィン、ポーといった魅力あるキャラを作り出しただけでも、すごいシリーズだったと思います。

 今まで散々いろいろ言ってきましたが、私はシリーズに絶望したわけではありません。
 「スター・ウォーズ」の広大な銀河には、まだたくさんの物語が眠っているはずです。「マンダロリアン」のように、「ローグ・ワン」のように。
 私は、スター・ウォーズが大好きです。
 新しい世代のクリエイターが、シークエル3部作の経験を踏まえて、自由な発想で、自分らしく物語を語り、新しい銀河へ連れて行ってほしいと思っています。製作が決定している新作映画は2022年に公開されます。公開まで2年ほどありますが、楽しみに待ちたいと思います。
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