平成2年の男

ムンバイ・ダイアリーズの平成2年の男のレビュー・感想・評価

ムンバイ・ダイアリーズ(2010年製作の映画)
3.0
・難解ではないが、難しい作品である。本作にはロクな解説記事がない。それだけメッセージを受け取るのが難しい作品ということだろうか。Filmarksのレビューも、本当にちゃんと観ているのか疑問を抱かずにはいられない所見ばかりである。これだけ理解されていないと、不憫というか感傷的な気持ちになる。(この感傷が本作に対する個人的なプラス評価になっていたりもするのだが。)

・世界で二番目に人口が多いインドの最大の都市ムンバイに生きる群像に我々は「生命の躍動」を連想する。これはボリウッドの影響も手伝っている。しかし、人が多いということは面積あたりの自殺問題や離婚問題、格差問題の密度もまた濃くなる。そんな当たり前の現実が「東南アジアの人間は朗らかで単純」という紋切り型の先入観によって見えないものになっていた。本作におけるインドに生きる人間を眼差す角度は、人生の陰影を色濃く映し出そうとする野心的な試みから生まれた類のものであるように思う。社会問題に対する啓蒙的な意識は無く、あるがままを捉えようとするドキュメンタリー的態度とでも云おうか。

・はじめの50分まではムンバイらしさを出そうとして失敗している、という印象だった。写実的すぎて、ムンバイの持つ魅力を五感に訴える視点を欠いていた。流れが変わったのは、ビデオレターに映し出された砂浜のシーンからだろうか。砂浜でヤスミンが残した言葉は本作における屈指の科白だと思うのだが、どの記事にも残っていないので下述する。

「(砂浜に自分の名前を書くが、
 打ち寄せる波に文字が掻き消されていく。
 その様を眺めながら)

 何も残らない。
 海に飲まれるの。
 すべて海と共有する。
 私の秘密さえもね。
 海の底に沈んでいくわ。
 秘密は守られる」

・シャイのことをあーだこーだ書いている人がいるが、米国の文化的影響を受けているインドのアッパークラスは、リベラル主義とノブレスオブリージュの意識が脳に刷り込まれている、という背景をまず理解せねばあかん。

・シャイが最後に流した涙が理解できないというレビューが多かった。彼女はなぜ泣いたのか? 言い切ってしまうと「アルンはオーストラリアに行ったんじゃね?」と嘘をついたムンナが、最後の最後にアルンの居場所を教えてくれた。そのことに対する罪悪感から彼女は泣いた。鈍感なふりをして無視していたムンナからの好意をシャイは最後の最後に認めざるを得なくなってしまった。そしてムンナという男に対して自分がどれほど残酷なことをしてきたかを瞬間的に悟るわけである。同時にムンナという男が自分に寄せてくれている好意が、純粋な、利他的な愛であることをも理解する。自分がムンナにしてきたこと、ムンナが自分にしてくれたことの二つを想って、シャイは泣いたのだよ。

・最後にボケたばぁさんの存在理由について個人的な考察を落とす。主要人物であるアルン、シャイ、ヤスミンの三人ともが、あのばぁさんに会っている。あのばぁさんは彼ら三人が各々に抱えている影の全てを飲み込む深い穴のようなもので、ばぁさん自体もその穴に呑まれた存在だと解釈している。あのばぁさんこそがムンバイの影の象徴(シンボル)ではないだろうか。