ninjiro

アンナと過ごした4日間のninjiroのレビュー・感想・評価

アンナと過ごした4日間(2008年製作の映画)
4.2
遠い昔、物心もつかぬ頃、
放置された廃屋に忍び込んだ思い出がある。

幼い私と幼馴染の女の子。
今考えると、彼女の家族の持ち物だったであろう、
そこは木の中にある家だった。
巨大なクスノキと寄り添うように、
或いはその木にようやくもたれ掛かって建つ家。
木漏れ日の差す中で、煤けた匂いは輝いた。
ミシミシと一足毎に崩壊の兆しを音で知らせ、
パチパチと何かが爆ぜる小さな音、
表では厚く積もった枯葉の時折一斉に騒ぐ音、
何もせずとも絶えず耳に聞こえた。

息を殺して、緑の匂い、埃の匂いのなか、
聴こえる全ての音に耳を澄ませた。

夕方の音が静かに滑り込み、
何時しか全てを支配するまで、

私たちは、ただそこにいた。


それが鮮明に記憶に残る、私の「音」の原体験。

本作を観てふと思い出したその記憶。
音は、見もせぬ姿形を思わせ、時に美しい映像を、時に恐るべき不安を、心に殴り書きの様に残して通り過ぎていく。

物語に台詞は極限まで排除され、ドラマを過剰に盛り上げる音も効果もない。
全てはなお忍ぶような吐息と共に。
足音、風の音、遠くに聴こえる鳥の鳴き声、布の擦れる音、そして蝿の脚の動く度にたてる音。
自然と生活の音は、切れ味鋭い映像にリンクし、
底知れない奥行きをその世界に与える。

その結果もたらされるのは、今我々の目の前ておこっている事は、「映画」であるということを忘れる程の没入感。
ドキュメンタリータッチである訳ではない。
擬似体験的に造られている訳でもない。
寧ろ、映画的な手法が多用された、非常にテクニカルな「映画」だと思う。
しかし、音像は例えば手の中に泥の感触、頭の上に降る雨の目の前に滴る様、そして土や火や雨、血の匂いまで、聴覚は我々の実体験の記憶を掻き立て、他の味覚を除く三感をフォローし、歪んだ主人公の心象への一体化を促す。

整然とした夢の中のような物語。

彼の想いは共感を呼ばないものだとしても、
一つの愛の形には違いない。

彼の孤独は、他者からの共感を寄せ付けない。
また、他者からの承認を受け付ける窓口を持たない。

君は、生きていた。
僕も、出来ればそこで生きたかった。
でも、それが出来ないことは
僕が、一番よく知ってる。

いや、僕しか知らないんだ。
ninjiro

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