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猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)のdm10foreverのレビュー・感想・評価

3.9
【そして猿の惑星になる】

「猿の惑星」前日譚シリーズは一応これで完結ということでいいのかな?
こういう前日譚ものって、予め着地点を決めて飛び始めるので、あまり激しくスピードを出したり乱高下を繰り返したりすると、降りなければいけない場所に辿り着けない危険性もあるので、実は「突っ走りきれない」ジレンマもあったりする。

もともとこのシリーズに関しては、大元の設定が「猿に支配された地球」で人間と猿の立場が逆転するという一種のブラックジョークを「SF」というフィルターで壮大な物語にまでしてしまった傑作。
当然観る側は人間VS猿の構図の中に「憎き猿め!」という感情を持つ、いわば猿は悪役として描かれていて、物語の中心はあくまでも人間という描き方になっていた。

この原作が書かれた背景には、作者のピエール・ブールが戦時中に日本軍の捕虜となり、それまで下に見ていた有色人種と立場が逆転したという経験を基にこの小説を書いたという説があるそうです(本人は一切そのことには言及しないまま亡くなりました・・)。
まぁそれが本当かどうかはわかりませんが、「猿が支配する惑星」という設定自体が進化論を根本から覆すようなお話しですが、最後の最後で明かされる「実は・・・」に「なるほど~」と唸らされた方も多かったのではないでしょうか?(さすがに当時のシリーズは劇場では観ていません。僕が生まれる前の作品ですから)。

今回のシリーズは、いわば「何故そうなった?」を順を追っていく作業となります。前述の通り、私たちはこの物語の「着地点」を知っていますので、あとは「どうやってそこに辿り着くのか?」を検証することになるのです。

「創世記」ではシーザーが実験動物であったとは言え、人間を愛し人間からも愛され、そこに独立や対立などという概念はおおよそ存在しませんでした。少なくともシーザーには。
しかし、人間は自分より下等と見ているものは最後まで下等でなければ気が済まない勝手な生き物なため、シーザーの成長=人間の脅威となってしまったのです。
皮肉と言えば皮肉ですね。
でもその「皮肉」を単純な夢物語ではなく、ある程度化学的な発想であったり、動物の本能的な部分であったり、おおよそ「全くの絵空事」でもないあたりにこの「新3部作」の面白さが詰まっているのではないでしょうか。

物語は回を追うごとにどんどんシリアスに、破滅的な方向に向かっていきますが、それはあくまでも人間にとっての話で、猿からみた状況というのはどうだったのかな?と。
結局は太古の昔から延々と繰り返されてきた「自由を手にするための戦い」は避けられないという状況で、それでもシーザーの考え方は正しいのだろうかという点をずっと追いかけて観ていました。

第1作から通して語られているのは「人間とエイプス(猿)は互いに殺しあうのではなくバランスをとって共存すべき」というシーザーの思想。だからむやみやたらに人間を攻撃したりはしない。
勿論人間のせいで混乱が起きたことは理解しているが、それでも人間全てが悪いわけではない。中にはいい人間(穏健派)だっている。
しかし、それと同時にストーリーの根幹を成しているのが「人間の醜い内面」とも言える。
一般に欧米人が相手を「サル(モンキー)」と呼ぶ時は、若干侮蔑的な意味合いも含めている。「自分より下(下等)」と見下したような意味だ。
そしてその猿が今や人間の脅威になっている、ましてあらゆる面で人間を追い越そうとしていると知ったとき、人間はどんな手を使っても脅威を排除しようとする。
そう、人間は地球上で最も身勝手で最も汚い種族なのだと猿は「認識」する。
もともと野生動物だったサルたちが「バランス」という言葉だけでリーダーについていけるだろうか?平和だけを求めるだろうか?
寧ろ「コヴァ」のような攻撃的な猿がいても、それは自然なのではないだろうか?
ここまでが第2作まで観たときの疑問というか「残った」点。

だから、ある意味ではこの3作目が僕にとってスッキリとした「解決編」になりました。

冒頭から人間の軍隊の襲撃を受ける猿たち。シーザーたちはあえて捕虜を殺さずに帰し「自分たちは理性的である」というメッセージを送ります。
しかし、人間の軍隊(大佐)は容赦なくシーザーたちの住処を攻撃し、シーザーの大切な家族を虐殺します。
ここで初めてシーザーが「特定の人間に対する復讐心」を前面に出します。ただひたすら復讐の為に大佐を追いかけるのです。
仲間の猿に諭されますが、それはまるで「コヴァ」のようでした。

そう、「コヴァ」の亡霊がこの作品の中で何度もシーザーの前に現れて、「エイプスは滅びる」と訴えます。

この設定ってね、実は結構すんなり入ってくるな~と思ったら、X-MENシリーズの「マグニートー」と「チャールズ(プロフェッサー)」の関係性によく似ているんだよね。
一見真逆のことを言っているようで、実は「ミュータントがミュータントらしく生きていくため」という大前提は同じという。ただ方法が「力づくで認めさせる」のか「共存の道を探す」のかという違い。でも所詮出所は両方とも同じ(ミュータント)なんだということ。

で、今作のシーザーは自分の内面に「コヴァ」がいるという事をまざまざと認識する。
コヴァが特別攻撃的なのではなく、生きていくためにはコヴァの考えも否定できないという事を悟るのだ。
でもそれはシーザーが攻撃性を目覚めさせたという単純なオチでもない。
それと同時に、敵側についていたレッド(ドンキー)が最後の最後に取った行動こそ「エイプが生き残るため」に取る行動として「攻撃性だけではなく仲間を守る」という知性も持っているという事を証明したシーンでもあった。

単純にファ~っとみていると「シーザー・インポッシブル」かよって言うくらい、シーザーの活劇パートに結構な時間が割かれていて、単純にアクション映画としての見所も多い作品ではありますが、そこよりもむしろ「エイプの長」として群れを生き残らせるためにシーザーが歩んできた道程の終着点まで一緒に辿り着くことが出来てよかったです。

今までありがとうシーザー。お疲れ様。
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