RenAlLotus

シン・エヴァンゲリオン劇場版のRenAlLotusのネタバレレビュー・内容・結末

4.7

このレビューはネタバレを含みます

死ぬほどネタバレだし、ていうかまだ観てないような人は読まないでくれ頼むから







【さらば、全てのエヴァンゲリオン。】

というのはマジだ。
終盤、白いエヴァインフィニティたちがほどけて、くずれて、そしてふつうの人間の姿になっていく演出があった。物語に沿えば「セカンドインパクト以降失われてきた人々を、ネオンジェネシス後の新世界に暮らす人間たちとして復活させた」みたいな解釈ができそうだ。
しかし、おれはこれは暗喩だと思ってる。そもそもエヴァンゲリオンというのは庵野が作った物語だけではなくて、言ってみれば人それぞれに「エヴァ観」なり「エヴァ像」なりがあるのだ。エヴァが現実の人間の姿に変わっていくというのは、そうして人間たちが心の中で形作っていた"全てのエヴァンゲリオン"が、現実世界へと還元されていくっていうことなんだと思った。

テレビ版のエヴァをリアルタイムで観た人も、子供の頃漫画版だけ読んでいて最近後追いで観たおれも、なにも観てなくて"なんとなくロボットの見た目やキャラクターを知っている"だけの人も、思えばそれぞれエヴァを知った日から今まで長い夢を見ていたんだろう。それはエヴァの虜になって青春を捧げたことだったり、テレビ版ラストやQを観てその難解さに心を悩まされたことだったり、単に「観てないけどエヴァってどんなんだろう?」と内容を想像したことだったり、全部が人それぞれの"エヴァ"をかたちづくってきた。そういうものを全部認めて、ありがとう、さよなら、エヴァはここで終わるから、みんなそれぞれ現実に戻って、この記憶をなにか新しい世界の礎にしてね、というメッセージを伝えていたんだと思う。最後に実写になることがそのひとつ。
映画の中で人それぞれのエヴァを認めるというのは、つまり各人が心に格納していたはずのエヴァンゲリオンへの思いやなんやまで全部一旦映画の世界に吸収されることだ。だから、「さよなら、全てのエヴァンゲリオン」というセリフで、おれは作中に登場するヒト型兵器エヴァンゲリオンや、完結してしまうエヴァンゲリオンの物語だけでなく、自分の中のエヴァまで一緒に持っていかれて、全部にさよならを言うような気分になった。おれはそこで泣いたけど、たぶん別れの涙という種類のやつだったんだろう。

庵野としても、エヴァンゲリオンほどの巨大コンテンツが人々に与えた影響、人々の中に息づくエヴァというものを認識していて、過去の自分達が作ってきたテレビ版、旧劇とともに、"人々の想像上のエヴァ(イマジナリー・エヴァ?)"もまとめて肯定したかったんだと思う。なんという自信だ!
序、破とほとんどTVの総集編のように進んできて、Qでは突然新しいキャラクター、新しいストーリーが展開される。Qの制作の裏側は詳しくないけど、シンのパンフにはQで新登場したキャラについて「ゆとり世代」という形容がついている。そういう世代がヴンダーの艦橋に加わるというのは、庵野が制作現場やその他で「エヴァンゲリオンに影響を受けた若い世代」に出会ったことを暗喩している。
じゃあ、14歳のまま時が止まって、心身ともまったく成長していないシンジはなんなのか。ひとつには、いまだにエヴァの現場でもがく庵野自身の自己嫌悪があるかもしれない。
でも、それよりも、「エヴァンゲリオンに影響を受けた人々」…あるいは、「ある人々にエヴァンゲリオンが与えた影響」、これを象徴しているのが「成長しないシンジ」な気がしている。エヴァが生んだ社会現象って、セカイ系とか、今に連なる"オタク文化"とか…これって、良いことばかりではない。誤解を恐れずに言えば、多かれ少なかれオタクそれぞれに「他者を拒絶していじける気持ち」や「こじれた女性観」なんかを植え付けただろう。たとえば、エヴァに影響を受けたオタクたちの中には、エヴァそのものが鬱屈した青春時代のシンボルになって、パチ屋の前でレイの顔を見るたびに自己嫌悪に陥るなんてこともあるかもしれない。これはおれにそういう部分があるから言ってるわけだが。
そして、そうした影響は時間を経ても完全に消えてはくれない。人々の中に、いつまでも成長しないシンジ君がいることになるのだ。
しかし、シンでシンジは大きく精神的に成長する。いや、なんなら登場キャラ全員が成長や変化をするように描かれている。これって、みんなが心に持ってる「エヴァから受けた影響」を塗り替えて先に進めることだし、それはエヴァ以外のコンテンツには絶対にできないことだ。
パンフでもこの8年で製作陣それぞれが変化したことなどが触れられているけど、この年月なしに庵野がこうした成長を描くということができただろうか?だって、それって過去の大きすぎる影響を塗り替えてでも本当になりたい姿を示すということで、「これが成長した人間のあるべき姿だ」という理想像がハッキリ見えていないとできないことだ。あるいは、何年も前の我々だったら、世界だったら、そうしたメッセージを素直に受け取れただろうか。映画の中のシンジが成長しても、我々が自分の中のシンジを一緒に成長させられなかったら、本当に作品が心に届いたとはいえない。この年月が我々ひとりひとりに、終盤のシンジやゲンドウの言葉を受け入れるだけの成長を与えてくれたのではないか。

そもそも我々は、2時間もこの映画を観てきて、すでにそれぞれのキャラクターや作品世界に共感していて、擬似的に映画の一部になっている。それ自体はもう全然ほかの映画やメディアで意識せずとも普通に行われていることで、だからこそ我々は「作中のキャラが作中のキャラに対して言ったセリフ」を、まるで自分に対するものかのように受け取って泣いたり笑ったりできる。
それだけでも充分なのに、庵野のやろう、戦闘シーンをスタジオの特撮セットの中でのことのように描いたり、これによって第3の壁(作品と現実を隔てる壁)は徐々に破られた。それって、一旦我々に現実の世界を認識させて、意識をそれぞれの人の身体に戻すことだ。そうするとどうなるかって、今までシンジという一人称に対してレイなりゲンドウなりという二人称があって、我々は三人称でそれを見ていたのが、急に「映画」と「わたし(観客)」という感覚を思い出す。「もしかしてこれは…"エヴァ"という一人称から"我々"という二人称へ語りかけているのではないか?」という視点に切り替わるのだ。
これは作品世界がひとまとめになってしまって、それはいま観ている映画が「つくり話」なことを強く意識させられることでもあるから、もちろん冷めちゃう人もいるんだろう。でも、エヴァがほんとうに好きで観にきた多くの観客は、ここで急に傍観者ではなく、面と向かって"エヴァ"と対決させられてしまっていたと思う。そうなるとおしまいだ。そこからは、作中のセリフがどのキャラからどのキャラへの言葉であろうと、作中の絵が正面を向いていようと横を向いていようと、ぜんぶ関係なく「エヴァから私へのメッセージ」に変わる。
おれはたとえば、シンジがカヲルに向かって「次は、きみの番だね。」と言ったセリフが刺さった。まるで自分に言っているかのように、とまでは言わないまでも、そうして作中のキャラクターひとりひとりに語りかけて整理をつけはじめたシンジの姿に、この映画が観客ひとりひとりの心の中にあるエヴァのかたちを肯定していく姿を感じてしまって、たとえば俺のように旧劇を観てませんよニワカですよ〜とかそういうのもまとめて愛してくれてるんだって思って猛烈に泣いてしまった。ほかにも、観客みんなそれぞれ、どれかしらのセリフに"自分という観客個人への愛"を感じてメッセージを受け取る瞬間があったと思う。

そんでこれすごいのが、あのラストをみれば考察するまでもなく「エヴァの世界は作り替えられて、現実の世界とまったく同じになったんだな」というような解釈ができると思う。それって、上で書いたような「"エヴァ"を一人称、自分を二人称とした対話」をまったく感じなかったとしても、完全にすべてを「エヴァンゲリオンというひとつのお話の中の出来事」ととらえたとしても、ちゃんと物語として完結していて、しかもハッピーエンドになっているということだ!庵野の欲張りさんめ、ふつうこんなに上手くメッセージと物語を両立させることはできないぞ。だから世には「説教くさい」と言われる作品がゴロゴロしている。

実写パートに入ると、アッ!シンジの声が神木隆之介だ!なんで!?現実世界の象徴として実写で活躍する役者を入れたかったのかな?それとも年齢が28歳に近いから?
それはいいとして、それよりも、恋愛脳的にはなにやらまるでカヲルとレイがくっついてマリとシンジがくっつくのか?と思わせるような画になっているのが気になる。
(うーんカヲルとレイだけ向かいのホームにいるというのもなにか…作中世界に深く染まった、エヴァを象徴するキャラクターへの訣別のようなものも感じるが…そこの考察も置いといて、)
じゃあまあとりあえず、カヲルとレイが付き合っててマリとシンジが付き合うエンドだととらえてみよう。これは別に根拠がないわけじゃない!ケンスケをアスカの"新しい居場所"とするような演出もあったし、ネオンジェネシス後の新世界におけるそれぞれの恋人が用意されたのだという解釈も許されているのではないか。
さて、シンジとマリがくっつく展開、そんなものを誰が予想しただろうか?シンジが付き合うならレイか、どう間違ってもアスカやミサトであって、マリだけはありえないだろというのがよくある考えだろう。
でもこれには、おれは自分なりに整理をつけたので、それを書こうと思う。
というのも、ネオンジェネシスしちゃったあとの新世界、これは紛れもなく現実世界の出来事として描かれてるわけだ。我々の生きる、この現実世界だ。現実世界で人間が、周りの予想した通りの人と付き合うかといったらそんなことはない。もう物語として、庵野や観客、みんなにとって都合のよい展開をする「エヴァンゲリオン」は旧世界のものであって、もうそれは終わった。ここからは誰にも予測やコントロールのできない現実であって、現実世界にシンジやレイがいたとしてもそれは我々と同列かつ関係ない個人なわけだから、「みんなの期待に沿ってレイとくっつけ!」とかを求めるのはナンセンスだ。
ここから観客はなにを感じとるべきなのかというと、色々あるだろうけど、おれ個人としてはその前からの流れで観客に対する「夢から醒めて現実に戻ってね」というメッセージを強く感じていたので、たとえばこれを「現実はみんなの思い通りには動かないものだけど、それぞれ自分の場所でがんばって生きてね」という意図と読み取ってもよいかなとおもう。
もうとにかくこの映画は観客それぞれがもつエヴァ像へのメッセージだから、「これはこういうことなのでは!?」とか、「この人の考察が正しい!」じゃなく、それぞれで何か感じて受け取ったらぜんぶそれが正解だ。もちろん、考察の結果あなたがなにか見いだして、これが唯一の正解だ、と思ったならそれもいいと思う。曲がりなりにもおれにはおれのエヴァがあるし、あなたにもある。

まとめとしては、やっぱり自分の中で「夢から醒めて現実に戻された感覚」が強い。エヴァンゲリオンという物語はもう完全に収束し、終劇して、ほどけて、現実の世界へと還り、人それぞれの中に"もうエヴァンゲリオンではない何か"(記憶だったり、感情だったり)として溶けてしまった。「エヴァンゲリオン」という作品世界の輪郭を保っていたA.T.フィールドは失われたのだ。
おれは旧劇とかをまだ観ていないけど、もう遅い。シン・エヴァの、あのエンディングの瞬間までにおれの中で形作られてきたエヴァ像、その全部をまとめてまるっと肯定されてしまった。その上で、さよなら、と言われた。こうなってはこれからエヴァに関するなにを追加で摂取するのも野暮だ。これはマジで個人の感想です。

さあ、明日から、このエヴァ不在の世界をどう生きよう。
LCLのようにどろどろに溶けた、"エヴァという物語"のエネルギーだけが残された。我々はこれで現実世界になにを創ってゆけるだろう。
さらば、全てのエヴァンゲリオン。
RenAlLotus

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