開明獣

ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐの開明獣のレビュー・感想・評価

5.0
すべての小説を愛する人たちに捧げる。この作品は、そういう副題でもよかったかもしれない。

ハーレムの地下にあるジャズクラブで、紫煙たなびく中、バーボンをあおり、スイングするリズムに合わせてストンプする男たち。リズムから言葉を産む。第一次大戦と大恐慌の時代に現れたジャズエイジとロストジェネレーションは、偉大な作家たちを産み出していく。

ジャズエイジの寵児にして、繊細で壊れ物のようだったスコット・フィッジェラルド。極限まで刈り込まれた厳格な文体で新時代を切り拓いたアーネスト・ヘミングウェイ。ヨクナパトーファという架空の地方を舞台に文学的実験を繰り広げた南部の賢人、ウィリアム・フォークナー。綺羅星が如く煌めく巨匠達と同時代に活躍したトマス・ウルフ。4本の長編を遺して早逝した、天衣無縫、豪放磊落な天才の作品を、今では翻訳では処女作「天使よ故郷をみよ」(講談社学芸文庫)しか読むことが出来ないのは、残念である。しかも、その翻訳の出来がかなり酷く、光文社古典文庫で、新訳を出して欲しいものだ。

そのウルフを見出し、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの編集者でもあった、マックス・パーキンズ。売れる本へと編んでいくその手法は、時に原作を歪めてしまったという批判を受けることもあった。もし、彼がジェイムズ・ジョイスやマルセル・プルーストの編集者であったなら、「ユリシーズ」や「失われた時を求めて」は生まれてこなかったかもしれない。

パーキンズに最初の原稿が持ち込まれ、出版が決まるまでウルフを支えたのは、アリーン・バーンスタインというユダヤ人の豪商の夫人であった。家庭に居場所を見いだせず、誰からも必要とされていないと感じていたアリーンはウルフと出会い、ウルフの才能を励まし献身的に愛する。その献身は執着へと変わり、アリーンはパーキンズにウルフを奪われたと感じて嫉妬する。一方、パーキンズは、文学へとその身を捧げた男であった。彼もまた家族を顧みず、文学への献身はいつしか執着へと変わっていく。だが、パーキンズは、アリーンを映し鏡とすることにより、自らの愚かさに気づく。この作品は、ウルフとパーキンズの交流が主だが、アリーンの役所は重要であり、ニコール・キッドマンが情念強く克己心のある女性を好演しており、彼女の演技も見所の一つとなっている。

ウルフの文章は散文にしては詩的で原文を読むには、英語を第二外国語とするものには骨が折れるのに楽しいという不思議な文体だ。彼は大地を踏みしめ、この地にある全てのものを描こうとする。言葉は奔流のように迸り、閃きは尽きることを知らない。まさに天才肌の作家であったと言えよう。そのウルフを非情にも不治の病が襲う。病院に駆けつけたパーキンズは、電話口で自分の夫人にこう話す。

“The plural of myriad is myriads”

「"無数"という言葉には複数形があるんだよ」

世の中には理解に苦しむことがある。そんなことを、ウルフが倒れた切迫した状況でも婉曲的に文学的に表現するパーキンズは、根っからの編集者であったのであろう。

コリン・ファース、ジュード・ロウ、ニコール・キッドマン、ローラ・リニー、ガイ・ピアース、主要な人物全員の演技が素晴らしく、作品を堪能出来る。最後には観るものを静かな感動に包んでくれる佳作だと思う。

パーキンズは、ウルフの死後、彼の遺言執行人を務め、その友情は終生変わることはなかった。

最後に書棚で積年の埃を被った"Looking homeward, angel"を紐解き、この映画の冒頭でも引用されていた部分を紹介して拙文の結びとしたい。

A stone, a leaf, an unfound door; of a stone, a leaf, a door. And of all the forgotten faces. Naked and alone we came into exile. In her dark womb we did not know our mother's face; from the prison of her flesh we come into the unspeakable and incommunicable prison of this earth.

一つの石、一枚の葉、まだみつからない扉。一つの石、一つの扉について。そして、すべての忘れられた顔たちについて。何一つ身につけず、たった一人で、私達は放浪の旅へと出る。暗い胎内で、私達は母の顔を知らない。母の肉体の牢獄から、私達は言葉にすることの出来ない、わかりようのない、この地上という牢獄へと降り立つ。
開明獣

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