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ベイビー・ドライバーのriyouのレビュー・感想・評価

ベイビー・ドライバー(2017年製作の映画)
3.8
ネタバレあり!




透明性をめぐって BABYとBATS

性善説か性悪説かという対立が昔から存在する。大雑把に言ってこの映画におけるBABYとBATSの対立がその構図に当たるように感じたのでこの話題からスタートした。性善説とか性悪説とかいうのは、ヒトのある透明な状態を仮定してそのときヒトはそもそも善なのか悪なのかと思いを巡らせるための概念である。透明な状態とは何ものの影響も受けていない孤独で真っさらな状態のことを指している。もっと簡単に言うならば、生まれたままの孤立した野生動物としてのヒトのことである。それを透明と称するのはまずまず妥当だろう。
はじめに、babyとは赤ちゃん、幼い子どもを意味する英語の一般名詞である。baby(赤ちゃん、子ども)は野生に近く経験の少ない真っさらな存在であるから上述の定義に照らして、透明に近い存在だと言える。
この映画の主人公が名乗る名前もBABYであるが、彼は自分が透明に近いと信じているし透明性を希求している。ここで言う透明性とは善なる透明性である。なぜそう言えるかというと、彼は強盗仲間が銃を撃つと露骨に眉をひそめるし、もし仲間が他人を傷つけたりするとショックで動けなくなってしまう。そういう人間なのである。ドライバーとはいえ強盗に加担しているにも関わらずそこでは(意地悪な言い方だが)善人面をするのだ。おかしな話に思えるが、彼なりの基準で自身の善なる透明さを信じ保とうとしていることは読み取れる。
さらに僕が彼に透明さを感じた根拠をあげよう。
たとえば、幼いころ交通事故で両親を亡くした彼は、耳の聞こえない年老いた里親と暮らしていて、ふたりは手話=ボディランゲージでコミュニケーションをしている。これは透明度が高そうである。より野性的だからだ。チンパンジーは喋れないけれど身振りで意思疎通を図ることはできると聞く。
また、彼は件の交通事故で負った後遺症の耳鳴りを防ぐためにずっとイヤホンで音楽を聴いている。そのため外界と遮断されがちであり、寡黙で孤独だ。他者との関係の少なさも透明性に繋がりそうである。
こういったところから事実彼は透明なように見えるし、彼自身透明だと信じている。それはなにより彼自身がBABY=赤ちゃんと名乗っていることから読み取れる。
しかしながらこの物語には主人公BABYよりbaby(赤ちゃん、子ども)な人物は出てこないので、彼の姿を見て多くの人が忠告あるいは脅しをしてくる。
里親のおじいさんは「お前の心が優しくて善なる透明に近いのは知っているし素晴らしいことではあるが、それは容易く汚れてしまうから気をつけろ」といったことを言う。具体的には「犯罪行為はやめてピザ屋で配達の仕事をしろ」と言う。それに従い彼は実際にピザ屋で労働をする。大人とは労働する者とも言われる(同様の意味で、子ども期とはもう赤ちゃんではないが労働をしていない期間だとも言われる)。これは彼がbaby(赤ちゃん、子ども)でなくなっていくひとつの合図だと思う。
また、ある強盗仲間は、ドライバーは直接人を傷つけないから善人っぽいと思っているらしいBABYの態度(裏返すと実際に手を下す役割の仲間たちを「悪人」として見下している態度)にムカついて「いずれテメェの手を汚さなきゃならねぇときが必ずくる」と脅す。
そして、その言葉は現実となる。彼は遂に自分の手で人を殺してしまうのだ。それまで仲間がどんなに人を殺しても自分だけはやらなかったというのに。それになんと最初に殺した相手は強盗の仕事仲間のBATSである。BATSは自分のことをイかれてる男だと称していて、人を軽々しく殺す。酷い人間だ。しかしBATSはBATSで自身の透明さを信じている。baby(赤ちゃん、子ども)のように命を命と思わず扱うことで透明だと主張しているのだ。すなわちそれは悪なる透明性である。ここでふたつの透明性(善なるものと悪なるもの)が相矛盾する形で現れ衝突する。BABYはBATSが人をバンバン殺していくことにブチ切れてBATSを殺すのである。BABYは自身の善なる透明性を貫くために、汚れる。奇しくもそれはBATS的には透明なのである。
BABYが人を殺してしまう場面は見ていて辛かった。できれば殺さないでほしいと願った。なぜなら僕は今まさにbaby(赤ちゃん、子ども)であろうと抗っている最中だからだ。自分の信じるある透明さが濁ることは避けられないと突きつけられるのは辛い。
しかし、ここまでの文章を読んできてあなたが感じているように透明性というものは所詮仮定したものに過ぎず存在しない。だから議論の土台自体がグラグラに思える。無いものについて善とか悪とか議論出来ない。
だが、たとえ透明さというものが本当のところ無くても、求めることはできる。それをBABYとBATSがそれぞれのしかたで証明してくれている。と同時に透明さを猛進するのは危険だということもふたりを見て学んだ。
自分の透明さを信じないことだ。BABYが殺意を爆発させる様を見て、辛さを感じるだけでなく爽快感もあったことを僕は認めるべきなのだ。
予定では僕が大学に通うのは後四年ほどだ。そろそろ透明さを求める心とうまく折り合いをつけて、労働をし、babyを名乗るのをやめるようにしなくてはならないのである。

BABYという名前について

BABYとは主人公が名乗る名前であるがご存知のように一般名詞として英語の中に存在する。だから人が彼に”BABY”と呼びかけるときには単なる名前としてではなく一般名詞としての意味も帯びやすい。それも呼びかける人間によって帯びる意味が変化する。
デボラがBABYと呼ぶときは恋人への甘い呼びかけとしてのBABYとなり、おじさんのヤクザたちがBABYと呼ぶときには乳臭いガキといった意味になり、彼のボスDOCがBABYと呼ぶときそれは我が子という意味になる。

母と父について

BABYの両親は彼の目の前で交通事故で亡くなっている。彼が車の運転に執着しドライブ技術を極めているのは悲劇の事故を乗り越えようとしているからだと監督エドガーライトがインタビューで述べている。
彼がいつも音楽を聴いているのは耳鳴りを防ぐためというのもあるが、歌手だった母を歌の中で追いかけているからだとも言える。彼は”mom”と書いたカセットテープを大事に持っていて、そこには母の歌声が記録されている。しかし”dad”と書かれた品はひとつも所持していないように見える。母の笑顔は多く思い出されるが、父については母と口論している姿ばかり思い出される。明らかに彼の中を占める母と父のバランスは崩れている。彼の心の中で父が占めるはずの穴がぽっかりあいているのだ。それを埋め合わせてくれたのが彼のボスDOCだった。

再びBABYという名前について

ボスは強盗チームの他のメンバーにBABYのことを紹介するとき、彼の天才性を知らせたあとで誇らしげに ”That's my Baby.” と言う。愚直にこの英文を訳すと「あれが我が子だ」となると思う。この訳はここでは的を射ている。
ボスがよく連れているのは甥である。だからおそらくボスには息子がいない。あるいはいても関係が離れてしまっていることがうかがえる。彼にとってBABYは息子なのだ。なぜそこまで言い切れるかというと、BABYの命を守るために彼は死ぬからだ。迫りくる車の前に立ちはだかり、跳ね飛ばされて死ぬ。そんなこと誰のためにできるというのか。我が子のためくらいでしかできない。
そしてそこまで自分を愛してくれるボスはBABYにとって父だったのだ。
交通事故のトラウマの内、母についてはうまく付き合えていたが、父についてはうまく付き合えていなかった。そこが埋められたことでやっと車の両輪が揃い、確かに事故を乗り越えることができたのである。

小さな報い

映画の最後、BABYは裁判にかけられる。その裁判で多くの人の証言から、死刑や終身刑を免れ懲役25年の刑に処されることになる。どんな証言かというと「私は彼に車を強奪されましたが、そのとき彼は謝罪の言葉を口にし、丁寧にバッグを返してくれた」とか「車の中から通行人の私に危険を知らせてくれた」とか、犯罪を犯す中の小さな気遣いについての証言である。「蜘蛛の糸」的な報われ方だ。この通り彼がギリギリのところで求め続けた善なる透明さは人々に伝わっていたのである。

またもやBABYという名前について

デボラは裁判の中で彼の本名を知るが、それでも改めてBABYと呼ぶ。そのときやっと”BABY”は恋人一般への呼びかけとしてのBABYから解放され、固有名詞としてのBABYとなるのである。
babyさ=透明さを貫徹することはできなかったが、それを彼なりに求め続けたということは確かに人々に伝わっていたし、その結果として固有のBABYとなれたのだ。
僕は先に、大人になりbabyと名乗るのをやめなくてはならないと述べたが、撤回したい。自分なりの透明さが認められるまで抗ってみるべきなのだ。撤退戦には違いないがやりようはある。それをBABYは教えてくれた。


最後におまけ
musicalな映画として
LaLaLandとの類似について

主人公が常にiPodで音楽を聴いているから、この映画は音楽映画として注目されている。音楽に物語世界が奉仕するつくりのためmusical映画的だと言うことができる。あるいはミュージックビデオ的というべきか。音楽に世界が奉仕するとは、登場人物の動作が音楽にマッチしているということだ。しかしながらこの映画の特徴はそのmusical感がどんどん小さくなっていくところにある。冒頭のシーンにおいてmusical感はMAXで以後降下していく。冒頭の強盗のシーンではBABYはまさにミュージカル映画さながら歌を口ずさみ、ハンドルを叩いたりワイパーを左右に動かしたりして音楽にノっている。音楽に合わせてリズムよくエンジンが回転し、ハンドルが切られる。注目すべきはこの時点では銃声と音楽はマッチしていない点だ。映画が進み後半に入るとBABYの動きなどより、敵味方のあらゆる銃声と音楽が合ってくる。
BABYのリズムと音楽のリズムが合わなくなっていくことを示す象徴的なシーンがある。劇中二回目の強盗シーンで、彼はいつも通り仕事開始とともにその日選んだとっておきの一曲を再生する。しかしどうもリズムが合わず、一度再生した曲を巻き戻し再度再生ボタンを押して仕事を仕切り直す。
何かがズレ始めていることが端的に伝わる良いシーンだ。彼の理想から物語がズレていくことが暗示されている。
ところで、本作について『LaLaLand』との類似を指摘する感想が散見される。それはある点で正しいと思う。『ベイビードライバー』は上記のようにmusicalな映画としては冒頭が最高潮であるが、それは『LaLaLand』も同様である。『LaLaLand』も冒頭のミュージカルシーンがミュージカルとしては最高潮でその後は下り坂だ。そして終始セブとミアがミュージカルにノれない姿が映される。音楽映画として評価されている映画でありながら、そのmusical感がどんどん降下していく点で類似しているのは確かだと思う。また、ラストで夢と現実が融け合う感じも似ている。
同時に決定的に異なるのは、セブとミアはミュージカル世界にノれていないのだが、BABYは自分の音楽に世界がノってくれない、ノらせてくれない点だ。ジャズの人間であるセブとミアにとってノらないことは本意だが、BABYにとってノれないことは不本意なのである。
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