BATI

ミュートのBATIのネタバレレビュー・内容・結末

ミュート(2018年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

「MUTE」というタイトルは主人公が過去の傷で声を失っている意味だけでなく、終盤で愛する女がもう死んでいて声を聞くことは二度とできないということにもかけている気がする。そう思うのはダンカン・ジョーンズがこの作品を亡くなった父親であるデヴィッド・ボウイに捧げているからだ。

この作品自体が失踪した愛する人が何処へ行ったのかを探す、そして愛する人はどんな人だったのかを知ろうとする物語だ。そして本当のことや、あの時何を考えていたのか、自分に何を思ってあの言葉をかけたのか、その真意や理由はもう聞くことができない。それを抜きにしても何にも代えられない愛する人の声を聞くことはもうできないという慟哭に思う。

この作品でのアレクサンダー・スカルスガルドはビールジョッキで水を一気に飲み干す。それは自分の声帯に振動を与える行為で、プールの中で空気を思い切り吐き出す行為もそうだ。彼は声を失っているだけではなく、愛する人に自分の声を届けられない。

監督のダンカン・ジョーンズには本作の完成前に子供が生まれている。親となった自分、そしてもっと沢山のことを父から聞きたかったという思いが込められたとてもパーソナルな作品になっていると思えるのです。

映画としてのバランスは歪かつポール・ラッドとその友人を通して描く男の女性に対する所有欲を描いたパートとのせいで余計に見づらいものとなっている。だがここもポール・ラッド演じる脱走した衛生兵が娘を持ったことで友人のペドフェリアやセクシズムに敏感になり嫌悪感を持つ、娘を守ろうとしだすのは他ならぬダンカン・ジョーンズも親になったからなのだと思います。

この物語は多分大概の視聴者にとっては面白いものにはならないでしょう。それは撮ったダンカン・ジョーンズにしかこの映画がこの造りになったことが理解できないからです。私小説のようでもあり、この難解さはまるで父であるボウイの歌詞のようです。ボウイは自分の歌詞を「数年経ってから書いていたことの意味が自分で分かるようになることがある」と言ったことがあります。ダンカン・ジョーンズにとっての「MUTE」もそんな作品なのかもしれません。

デヴィッド・ボウイを、そしてダンカン・ジョーンズの「月に囚われた男」を愛した、そして何か大切なものを失ったことのある人には何かがいつか伝わってくる作品なのだと私は信じています。
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