Habby中野

君の名は。のHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

君の名は。(2016年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

毎回完璧なタイミングで入ってくるRADWIMPSがうるさすぎて笑ってしまったけど、それが体現する、誇張され、虚構化された表面的な偽物の”エモ”─美しく描かれたシティTOKYO、憧憬の田舎、高校、青春─それらが”ガワ”で、その下にあるものを捲り見つめようとする姿勢がこの映画にはたしかにあった。
まず、スタートのおそさに驚いた。「目が覚めると、なぜか泣いている/ずっと何かを、誰かを探している」のプロローグ後から、すぐに”入れ替わり”は始まる。観客にはそれが知らされているにもかかわらず、本人らの自覚〜生活の違和感へと、キャラクターたちは少しずつ、我々にとってはあまりに遅い感覚で物語の結合点へと向かっていく。そうした観客の知とキャラクターの無知─サスペンスの構図でありながら、我々はやはり知らないこともあり、騙されたりもする。
そしてようやく、30分がすぎたところで本当の物語が、始まる(爆音で「前々々世」が流れる)。こういう構成の作品はほかにないでもないが(タイトルクレジットクソ遅系映画 ex:『愛のむきだし』)、ただこの映画、てっきり「入れ替わった二人がお互いを探す純愛ラブストーリー」かと思っていたのでここから何を始めようってのかと正直戸惑った。もう始めることなくない?

『君の名は。』は、探す物語だ。入れ替わった相手を探す、という体で、その実”何か分からない何か”を探す。そしてそれは”ムスビ”という言葉で表される”時間と場所”についての探求に結ぶ。3年という時差、そしてタイムラプスや扉の仕切りといった視覚的な超越の実感。
交われない時間と場所は、”神”的な─というかほぼ直接的に神様─御神体と、彗星という、人間より巨大な目をもって捉えられる。過ぎた時間、異なる空間─確実な過去も、あったかもしれない現在も─それらの不可逆なものを、大きな目で見つめる。境界線は存在しない。
それは”神の目”でありながら、スクリーンのあちらとこちらをも超えるこの映画自身の目でもある。かつてあった(が滅びた)岐阜の土地、原風景的な景色と現代TOKYO。時間も場所もちがうけれど、神の目から見ればすべてはそこにある。滅びたからない場所ではない。過ぎ去ったから消えた時間ではない。東京の足下にもそれはあり、この吹く風は現在だけのものじゃない。
本当に驚いたけどアピチャッポンの『MEMORIA』に共鳴している作品だった。制服・恋愛・美作画という”ガワ”で受け取った人たちへ、これが少しでも伝わればいいと思う。たとえその名を知らなくても、彼らは消えてなくならない。
Habby中野

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