(俺はこんな人間にはなりたくない)
(ここは居心地が悪い)
(ここにはもう居たくない)
このセリフは、2008年に新人漫画賞を入選した初期の『聲の形』の中で、西宮がクラスを去った日に石田が吐いた"彼の隠れた心の声"であり、僕はこのセリフに一番共感しています。
これは映画にも残しておくべきだった。
僕が本作を見て確信していることが一つある。
それは、この映画のテーマはイジメや差別、または贖罪とかではなく、本当のテーマは【自己嫌悪からの解放】であるということだ。
本作の根幹を成す《心に迷いのある男が、傷つけてしまった女の人に、許しを得ようと周りを巻き込みながら突っ走っていく》構図は、僕が大好きな映画の、ダグラスサークの『心のともしび』や、ジョンウーの『狼/男たちの挽歌 最終章』の筋書きと凄く似ている。
また、《主人公が橋から飛び降りて自殺を試みる場面から始まり、みんなに囲まれながら本当の自分自身の良さに気付いていくラスト》の流れは、1946年の『素晴らしき哉、人生!』で、主人公のジョージが体験したことと、実は全く同じなのではないだろうか。
ただ今回の場合、石田を含めたほとんどの登場人物は、昔に自分がやったことに対しての罪悪感で酷い自己嫌悪状態に陥っており、《その人の為に行動したとしても、自己嫌悪が枷になってしまい、余計に自分や他人を追い詰めてしまう結果で終わる》ことが頻繁に起きている。
更に、この物語には先程の作品で登場した"大切な存在"が欠けている。
それは『素晴らしき哉、人生!』の劇中で、主人公を自殺から助けた二級天使のクラレンスのような、他者に共感してあげられる"父親的な存在"だ。
石田にしかり、西宮にしかり、他のメンバーも、"親友"や"最後まで味方になってくれる友達"が一人もいない。
"他者に共感してあげられる人"は、おそらく西宮のおばあちゃんぐらいだし、(しかも途中で去るという事態になる)
"父親"はというと最後に一人ぽっと出てくるぐらいで、石田の父親や西宮の父親は、物語が始まる前に子供を捨てて家を出てしまっている。
そして他人のことに無関心で、自己責任を押しつける人間の象徴なのが、おそらくあの小学校の先生であり、"辛い時に道標になってくれる人"をわざと隠したとしか思えない。
そんな危機的状況下にいる孤独な登場人物達を見ていると、まるで彼らは『素晴らしき哉、人生!』のジョージと同じように、ベッドフォードフォールズからポッターズビルにへと迷い込んでしまったかのようだ。
誰かが他人に対してアドバイスをしたとしても、そこには見えない大きな壁があって、モヤモヤした曖昧な答えを返すことしかできない。
この『聲の形』の世界は、〔誰かが声を放っても、その声を他者の心の中に届かせることができない〕状態だ。
では、
《危機的な自己嫌悪に陥っている彼ら》は、
この〔声の届かない世界〕で、
登場することのなかった"父親的存在"に接触できなかったのか?
実はそうではない。
たった一箇所だけ。
あのベランダで石田は"彼"に対して叫んでいる。
その時に"彼"は答えはしなかったけど、あの瞬間に石田が放った"声""ことば"こそが、
彼らにとって、
【この終わりの見えない、負のスパイラルを断ち切れる唯一の鍵だった】
のは間違いない。
僕はBlu-rayに収録されている、声や効果音等の外の音を全部消して、新しい音源に差し替えた「inner silence ver.」に日本語字幕を付けて見るのが好きで、
彼らの心の奥底へとダイブしたかのように感じさせてくれるこのver.こそが、この映画の本来の姿だと思っています。
だから、このレビューの点数はそのver.のです。
追記
この映画には他人に対して共感してあげられる人が登場しないと書いたけど、何回も書き直している内にそれもちょっと違うのではないか思うようになってきた。
実際、石田が自殺をやめたのは西宮が自分を拒絶しなかったことからだし、石田母は石田にもう自殺しないことを約束させたし、結弦は石田のことを認めて姉の西宮に寄り添っていた。
昔の小学校でも最初の頃は植野も川井も西宮のことをフォローしていた。
もしかしたら本当は(理解したい、共感したい、受け入れたい)というのが彼らの心の奥底にあるのだけれど、自己嫌悪と他人の拒絶や周囲の冷ややかな目のせいで、それができなかったのではないかと考えています。