ナガエ

透明人間のナガエのレビュー・感想・評価

透明人間(2019年製作の映画)
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僕は、「科学で説明できないこと」を、基本的には信じている。そしてそれは、非常に科学的な態度だ、と僕は考えている。

例えば。今から120年ほど前、科学者たちは「原子」の存在を信じていなかった。何故なら、誰も見たことがなかったからだ。今では、小学生だってたぶん、様々な物質が原子から出来ていることを知っていただろうが、120年前には、世界トップクラスの科学者たちが「原子なんて存在しない」と思っていたのだ。原子の存在を主張する科学者はある意味で嘲笑の的でもあった。そんな状況を大きく変えたのが、あの有名なアインシュタインであり、1905年に発表した「ブラウン運動」に関する論文が、初めて原子(実際にアインシュタインが示したのは「分子」だけど)の存在を間接的にではあるが証明するものとして評価されている。

さて、この「原子」の話を前提にすると、こういうことが分かる。「その時代の科学力では捉えきれないが、未来の科学力では確実なものとして証明できるもの」は、いつの時代にも存在する、ということが。このことは、科学の歴史が証明している。いつの時代にも、その時代の科学力では捉えきれない現象が発見され、科学者が何らかの仮説を提示し、それが後に実験などによって証明されるのだ。これが、科学の歴史である。

だから、科学を信じるということは、同時に、科学では説明できない(が、未来には証明されるだろう)ものの存在を受け入れる、ということでもある。

そういう意味で僕は、「幽霊」や「UFO」のような現象も受け入れる。とはいえ、「死んだ人間の姿が見える(=幽霊)」や、「地球以外の知的生命体が乗っている飛行物体(=UFO)」という意味でそれらを信じているわけではない。今「幽霊」や「UFO」と名付けられている「現象」も、将来的には何らかの科学的な説明がつくだろう、と信じているということだ。その過程で、「幽霊というのは、死者の姿が幻覚ではない形で見える光学的な現象だ」ということが科学的手法で証明された、というのであれば、それは受け入れる。その可能性は低いと思っているが(「幽霊」と名付けられている現象には、死者とは関係のない何らかの現象が起こっている、と僕は考えているが)、それが証明されたのであれば受け入れるしかない。

科学者はこれまでもそうやって、受け入れがたいことを受け入れてきたのだ。

例えば、同じく原子の存在が否定されていたのと同じ頃、「エーテル」という物質が存在すると信じられていた。この「エーテル」は、今まで誰も見たことがないし、何らかの方法で検出されたこともなかった。しかし、色んな理由から、「エーテルという物質が存在しないとおかしなことになる」という共通理解が科学者の中にあって、ニュートンの時代からその存在が信じられていた(とはいえ、ニュートンは、エーテルの支持者ではなかったはずだが)。そんなエーテルを葬り去ったのも、やはり天才アインシュタインである。

また、この映画に絡めた話もある。10年くらい前に本で読んだが、「透明マント」は”原理的には”実現可能だ、ということが分かったのだ。その背景には、「負の屈折率を持つ物質」が作られたことにあった。

それまで科学の常識では、屈折率は常に正だった。「物が見える」というのは、「物に当たった光が見える」ということだ。そして、「物に当たった光が反射する角度」のことを屈折率と呼ぶ。「屈折率が正」というのは、「物に当たった光ははね返ってくる」ということであり、つまり、「屈折率が正=物が見える」ということなのだ。

しかし、屈折率が負になるのなら、話は変わってくる。「屈折率が負=物に当たった光がはね返らない=物が見えない」ということになるのだ。つまり、屈折率が負になる物質でマントを作れば、「透明マント」が作れるということである。そして、それまでの科学の常識に反して、屈折率が負になる物質を作れることが分かったのだ。

まあ、とはいえ、”原理的に”可能だというのと、実際に可能だというのは大きな違いがある。例えば、タイムマシンだって、原理的には可能だ。だが、それを実現するための技術に問題がある。透明マントにしても、原理的には可能だが、本当に完全に透明になれるようなものを作るにはまだまだ技術が追いつかないだろう(けど、タイムマシンよりは、透明マントの方が遥かに現実的だとは思う)。

科学的であるということは、科学で証明されたことだけを信じるような態度であると思う人もいるだろうが、僕はそうは思わない。科学的であるということは、同時に、科学では捉えきれないものを否定しない態度をも内包しているはずだ、と思っている。

内容に入ろうと思います。
セシリアはある日、エイドリアンの元から逃げ出した。エイドリアンは、光学研究の先駆者として世界的に認められている研究者だが、セシリアにとっては恐ろしい夫だった。行動や思考までも管理しようとし、セシリアは誰もが羨むような豪邸に住みながらも、束縛と恐怖と戦う日々を過ごしていた。そこから、妹・エミリーの協力を得てなんとか逃げ出したのだ。
友人で警察官であるジェームズの家に匿ってもらうことにしたセシリアは、家の前の郵便ポストにもたどり着けないほど、エイドリアンの存在に怯えていた。しかしある日、エイドリアンに居場所がバレるから近づかないように釘を差していた妹がやってきて、エイドリアンが自殺したことを伝えるネット記事を見せた。彼が自殺するはずがないと言い張るセシリアをなだめつつ、セシリアは少しずつエイドリアンの恐怖を忘れるようになっていった。
ある日セシリアの元に、相続のお知らせという封書が届く。エイドリアンの兄だという人物が、弟が遺した莫大な財産を相続する権利があると告げてきた。信じられないほどの大金を手に入れたこともだが、エイドリアンの死が確実であることを知り、セシリアは安堵する。彼女は、もらった遺産の一部を、ジェームズの娘であるシドニーの学費として渡し、親子を喜ばせた。就職のための面接も控え、セシリアの新たな人生が始まる…はずだった。
セシリアは遺産相続の話し合いの後から、家で誰かの気配を感じるようになった。でも、誰もいるはずがない。いるはずがないけど…彼女は確信する。エイドリアンが、近くにいる…。
というような話です。

エンタメとして、面白く見れる作品でした。とにかくまず、映画の冒頭から非常に不穏です。何がどうなってるのか分からない。とにかく、セシリアの必死さだけが伝わる。その後、彼女には状況が理解できるようになり、とにかく戦わなければならないと決意します。

この映画で本当に難しいと思うのは、誰もセシリアの話を信じようとしない、という点です。まあ、それは仕方ない。どう考えても、セシリアの主張は、頭のイカれた人間の戯言にしか聞こえないわけです。セシリアと親交のある者は、それでもセシリアの主張をそれなりに受け入れようとするが、そうではない人からすれば、ただのヤベェ奴でしかありません。彼女には、彼女なりの確信があって、彼女なりに最善の対処をしているつもりなのだけど、それがすべて裏目に出ることになる。

この映画は、基本的にセシリアの視点で描かれるので、観客もセシリアに同調するように物語を体験することになる。だからこそ、セシリアの主張を誰も受け入れてくれない状況に辛さを感じる。

しかし、当然だが、この話をセシリア以外の人物の視点から見れば、周りの人間の反応は当然だ。どちらが正しいわけでも、どちらが間違いなわけでもない。しかし、結果として、セシリアは孤独に追い込まれてしまう。「見えない存在」の恐ろしさが描かれた存在ではあるのだけど、その一方で、自分の主張を誰も信じてくれない怖さも同時に描いていると感じました。

ラストも、なるほどと思わせる鮮やかな感じでした。全然予想してなかったけど、確かにこれしかないな、という絶妙な終わらせ方でしたね。

映画を人に勧める時、「それ怖い?」と聞かれることがあります。この映画は、ホラーっぽい雰囲気は確かにあるのだけど、トータルで言えばホラー的な怖さではない、と言っていいと思います。ホラー的な怖さが気になって見るのを躊躇しているとすれば、そういう要素はゼロではないけど、概ね大丈夫だと思う、という感じです。
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