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ダゲール街の人々のdm10foreverのレビュー・感想・評価

ダゲール街の人々(1976年製作の映画)
4.2
【そして営みは続く】

ちょっと横道から入りますが、2018年9月に北海道で「胆振東部地震」という大きな災害がありました。
不幸中の幸いか、都市部では壊滅的な被害が出なかったことから、あまり大きな地震とは捉えられていないなんて印象もありますが、実はその傷跡は今でも深く残っている場所も沢山あり、決して「軽くて小さな災害」ではなかったことを物語っています。

で、あの日。
普段からちょっと眠りが浅めの僕は、まだスマホの警報がなる前に(グラ・・)っていう小さな揺れを感じた気がして目を覚ましました。
時間にすれば1~2秒の差だとは思うんですが、体感的には10秒間くらいあったような気がして、
(あ、やばいかも・・・バンビ(犬)をタンスの前から避けなきゃ・・・子供たちは・・・?)
とか、結構色んな事が頭の中を駆け巡った直後に「グラグラグラ!!!!」って感じで大きな揺れが来て・・。

そこから先はもう大変でした。
札幌は震度4程度だったので建物が壊れるようなことはなかったんですが、水と電気はあっという間にダウン。
早いところでは1日もかからずに復旧しましたが、同じ札幌市内でも復旧までに3~4日くらいかかったところもありました。なんと脆弱な政令指定都市か・・・。

でね。
電気が止まったので当然地下鉄もストップ。
信号も点かないから安全のためバスも運行を見合わせ。
早朝から「出勤難民」が札幌市内の至る所に発生し、それはまるでゾンビの群れのような異様な光景でした。
そうそう、あの時はセコマ(道民のマストショップ、ご存じ『セイコーマート』)が大活躍。
セブンやローソンが軒並みダウンする中で、コツコツと店を開け続けてくれたのがセコマでした(あ、勿論セブンやローソンでも頑張って開けてくれていたお店もありましたよ。彼らの名誉のために追記)。
で、なんとか飲み水を確保し、ひたすら職場までの片道1時間半の道のりを歩いて通う数日間・・・。

って感じで、だいぶ作品のレビューから遠回りしてしまったんですが、実はこの時に感じた「慣れ親しんだ街の別の顔」っていうのがとても新鮮で、今でもあの当時の感覚が胸に焼き付いているんですね。

地下鉄かバス(ただ、バスは本数が少ないので殆ど使わず・・・)で、毎日流れるように通り過ぎるだけの街並みを一歩一歩踏みしめて歩きながらフッと顔を上げてみると「あれ?ここって喫茶店だったんだ~な~んかお洒落な感じだね~」とか「ここって、こんなに立地がいいのにあまり人が住んでなさそうだな・・・事故物件か?!」とかとか・・・(笑)
とにかく色んなことを考えながら歩くのが実は楽しかったりもした。
・・・って言ってもさすがに初日はそこまで余裕はなかったけどね。

~~これはパリ14区のダゲール通りに暮らす人々の姿を捉えた作品。
パリ14区、モンパルナスの一角にあるダゲール通り。
銀板写真「ダゲレオタイプ」を発明した19世紀の発明家の名を冠したこの通りには、パン屋や肉屋、香水屋など様々な商店が立ち並ぶ。
そんな下町の風景をこよなく愛したヴァルダ監督が、温かいまなざしと冷徹な観察眼をもって人々の姿を映し出す・・・(あらすじ)

この作品で描かれるのはいわゆる「Tha Paris」っていう感じの華やかな市街地からはちょっと外れた、「人々の営み」が根付く場所。
そこには「香水屋」「パン屋」「雑貨屋」「肉屋」など、様々なお店が軒を並べ、互いに「街のピース」として生きていた。
ドキュメンタリー作品らしく、不要なSEや劇伴は使わずに、彼らの足音や話し声、動作に伴うちょっとした物音など、ありとあらゆる「生きている音」がメインなのが耳にも心にも優しい。

ここで感じたのが「距離感」の適温について。

勿論、これは当時(1970年代のフランス)の話なので、今ではまたちょっと価値観や考え方も変わってきているかもしれないんだけど、既にこの頃のパリって「移民の町」っていう側面もあって、それは何も国外からっていう意味だけではなく、同じフランスの中にあっても様々な「地方」から出てきた人たちの「坩堝(るつぼ)」のような場所でもあったんですね。
で、このモンパルナス、ダゲール通りも例外ではなく、皆若い頃に田舎から「上京」するかのようにパリに出てきて今に至っている。
劇中でも触れていたけど、『パリでありながらもここは「田舎」である』っていう表現は結構言い得て妙だなって気がした。

それはそこに暮らす人々の素朴さっていうのも勿論あるんだけど、それとは別に彼らの共通認識として「政治の話をしない」ことで適度な距離感を計っているんですね。
一本向こうの通りでは「政治的な新聞」も売られているし、そういう話題で話をすることもある。
でもここではしない。政治の話はやがて分断を生むっていうのを彼らは経験として身に着けているんだと思います。
勿論、そういう思想や主義などはお互い持っているのだろうけど、それをあえて表に出さずに「コミュニティの一人」として生きているんですね。

これってね、今の社会が抱える「生きにくさ」に対するヒントにもなっていたんじゃないかな・・って。

とかく「形」や「名前」や「カテゴリー」で分けようとするのではなく、お互いの主張があるのは大前提として、それをぶつけあえば絶対分断に繋がるって最初から分かっているのなら、それはあえて閉まっておきましょうよっていう「配慮」。

勿論自己主張は大切かもしれないけど、それこそ「色んな田舎」から出てきた人たちにとっては、それぞれに「主義、主張」があり「言い分」があるけど、それをぶつけあって片一方の主張を通したところで、一体その後に何が残るというのだろうか・・・

華やかなパリの街並みからちょっと離れた場所に息づく人たちに感じる、静かだけど確かな「生活の匂い」
そこには観光で訪れただけでは決して窺い知ることのできないリアルな営みがあった。

・・・ところで。
これってドキュメンタリーって事でいいのかな?
オープニングに現れたマジシャンが劇中にも出てきて「一夜限りの奇術祭」みたいな感じで街の人たちに手品を披露するんだけど、彼が奇術で生み出す「米」「ワイン」「紙幣(お金)」はどれも、彼らの日常生活と切っても切れないものなんですね。
どんなに奇術で増やせたとしても、夜が明ければまたいつもの堅実な営みに戻っていく。
そんな彼らにとっての不思議な時間は、どこか「夢の中」のような時間にも感じられました。
変わらない日常を繰り返しながらも、人との繋がりやこの街との不思議な縁を感じながら、慎ましく生きている人々。
何故だかそこに「ドラマ」のようなものすら感じたんですね。

この街の名前の由来ともなったルイ・ジャック・マンデール・ダゲールが発明した銀板写真は、通称「ダゲレオタイプ」とも呼ばれ、その鏡のような魔術的な光沢から肖像写真などに重宝されました。
またその独特の技法から、ダゲレオタイプは「世界に一点しか存在しない」という意味でも使われるようになったそうです。

そんな言葉を考えながらこの作品を観ると、何となくどこにでもありそうな街の風景すらも彼らの穏やかな営みの姿にどことなく愛おしさにも似た感情が湧きあがってきて、それは「世界に一つしかない街の風景」と言えるのかもしれないな・・・って。

一本のドキュメンタリーで、しかも「何気ない人々の日常」という内容なのに、どこかロードムービーのような物語すら感じてしまう作品でした。
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