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君の名前で僕を呼んでのはまたにのレビュー・感想・評価

君の名前で僕を呼んで(2017年製作の映画)
4.0
失った恋において、あの人の顔も、声も、思い出も、すべては忘却の対象で。なのに、あの陽のまぶしさは鮮明で。なぜかあの木々のさざめきは残っていて。なぜかあの自転車の、肌を迎える風の感覚だけは僕のもので。なぜかあの果実の確かさだけは離れなくて。なぜか、なぜか、なぜか…。なぜかあの秘密事だけは忘れられなくて。

そんな記憶の塵を、塵とこぼさず丁寧に丁寧に描いていった作品。そんな印象を受けた。鑑賞後の脳裏に残るのが、2人の恋の物語よりも夏の北イタリアの空気感であることからも、監督が何をフィルムに収めようと心を砕いたのかがわかる(気がする)。恋そのものよりも“そのもの”なのは、「あの日々」だったりするのだろう。

そんなことをセンチメンタルに思ったりしたが、映画としての評価はどっこい高くない(これでも)。

たぶん、「アミハマたんとシャラメたんを愛でるだけで眼福」という視点が自分にないからなのかなと思う。あるいは、このレビュー冒頭のポエティックな表現も、彼らの恋の軌跡に強くは惹かれなかったからかもしれない(だからってポエマーになるなよ)。他の人だったら、私と真逆の「風景も綺麗だったけど、何より主役の2人に釘付けになった」かもしれない。あの頃の日々の残像がどうのこうの言ってる時点で違っちゃってるのかもしれない。

ということで、事前の期待値には届かなかったかな。スフィアン・スティーブンスの曲はもう本当に最高だったけど(世界一好きなアーティストだからもはや客観視なんかできないけどね!)。

【注:関係ない話でこっから長いのでここで止める人は止めといてね】

あと気になったのは、LGBT(こういう名称がなくなる日が来ればいいさね)作品に必ずな肉体描写ね。本作でも性描写は、さほど直接的ではないにしろそれ抜きには描かれえない密接さで物語に組み込まれている。なぜ男女の恋愛映画にはそう多くはない部分が常にクローズアップされるんだろう。それもただのベッドシーンではなく、射精やオーガズムをしっかりと想起させるような描写が。

彼らの(って分けるのもよくないんだけど)恋愛において心と体はもっと密接で当たり前の関係なのだろうか、あるいは“普通の”恋愛映画こそがペルソナなのだろうか。「“普通に”恋愛を描いてるんだから性描写があるのは当たり前じゃない?」そう言われているような気もするし、プラトニックなるものに潜むいくばくかの偽善をあえて暴かんとする意思が介在している気がしなくもない。マリアはんが生娘で懐胎されたときからの禁忌に対してというか。まあ、考えてもわからんのだけど。

でもこれって、東京レインボープライドとか海外のラブパレードが半裸・露出狂だらけになる問題と共通するものもある気がするな。「性にも何にもとらわれず、好きな人を好きと言う当たり前の自由が誰にでもある」と主張する行進をなぜ半裸で腰を振りながらしなくてはいけないのか。それ関係なくない? みたいな。こないだ「服を着るのがめんどくさい」で全裸で朝のゴミ出ししてた人が逮捕されたことがあったけど、そんなの当たり前じゃん。自由と好き勝手は違うんだから。のような。

ところがそれは、彼ら(って分けるのもよくないんだけどパート2)にとっては関係なくはないのかもしれない。良い悪いは別として。

まあ実際、自分の友達でも「主張はわかるし支持もするけど、パレードだからって子供たちもいる公道で半裸で騒ぐ意味がわからない」って怒ってる友達いたしな。確かにメーデーのデモで露出しまくってる奴なんて見たことないし、自分もその意見の側ではある。


でも、自らの心の在り方について社会からの抑圧的な空気や直接的な抑圧にさらされた経験を持つ人たちにとって(すげー慎重に書いてるつもりなんだけど間違ってんだか間違ってないんだか)、あるいは自分自身で自分自身に「なぜ」を問いかけてしまったことのある人たちにとって、肉体とは「何も意識していない人々」以上に語るべき、意識すべき“心の”ファクターなのかもしれない。だから、精神の自由を訴えるためには肉体も自由の側に置いておかなくてはいけないのかもしれない。それが生まれたままの姿に近い半裸なのだろう(ちょっと無理があるけど)。それが創作物の場合だと、未来永劫原初の求愛行為であるセックスになるのだろう。

かなりフラフラとした仮定だけど、そう考えるとラブストーリーを撮ることにおける肉体の触れ合いの描写というのは、必要不可欠な自由の投影なのかもしれない。『アデル』なんてぶつかり稽古みたいだったけど(ごっつぁんです)、あれは自由の途上にある2つの魂による生の謳歌なのだ。

いや〜、めっちゃ書くの疲れた。

ということで、映画本編を観ながらそんなこと考えるってことは、ド真ん中じゃなかったということだろうな。

2人の秘密事として(なのかどうかは読みが浅くてわからんけども)君の名前で僕を呼ぶ本作だったり、最後まで名のないあなたと私に終始する『シェイプ・オブ・ウォーター』だったり、我が子の名前を決して呼ばない『ラブレス』だったり、名前の使い方ひとつでいろんな意味がありますな。

つーか、あのハエの意味ってなんだったんだろ? ギリシャ神話とか聖書に原典がありそうだけどわからない。ただ言えることは、Filmarks文筆業(お金にならない)に精を出しすぎた心と体を、北イタリアの避暑地で回復させたい。それだけ。

誰か僕の名で北イタリア旅行プレゼントの当選者発表して!
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