ヒゲ人類

ムーンライトのヒゲ人類のレビュー・感想・評価

ムーンライト(2016年製作の映画)
4.3
先に、この文章は面白おかしく読んでもらいたいと記しておく。

昔から誰かと並んで写真を撮ると違和感があった。
何かが違う。なんか俺かっこ悪い。みんななんでそんなにかっこいいんだろう?俺よりもかっこ悪いと思ってた奴も写真で見ると俺の方がかっこ悪い。俺は「そうか、鏡で見るよりも俺ってぶすなんだ」と思った。だから、俺がかっこ悪いのは顔がかっこ悪いせいだと思っていた。けど、それだけじゃなかった。

顔がでかいのだ。
付け足せば、そもそも頭蓋骨がでかい。

要は太っているからとかむくんでいるからとかそういう、副次的な理由でなく本質的に顔がでかいということだ。痩せようがMAXに健康体になろうが覆せない厳然たる事実として、まるで宇宙で唯一の絶対的事実かのようにそこにあるのだ。
「顔のサイズが全身のバランスを大きく左右し、時に手足の長さや顔面の造作の美醜よりも顔の大小が見た目を左右する。そして俺は顔がでかく足が短く顔がかっこよくない」
この概念に気づいてしまった時はきつかった。まだ何も手に入れていないのに、そもそもそれらを手に入れようとする資格さえなかったのだと。他の人間みんなが手に入れられるであろうさまざまな希望を諦めなければいけないのだと絶望した。
子孫残しちゃ駄目じゃん。て言うか結婚どころか彼女も無理じゃん。枕を交わすなんてもっての...。いやそもそもそれって女性側の意見無視してたわ。女性と話して良い資格を与えられているなんて誰が決めた?両親どころかすべての先祖を恨んだ。口にしたことはないが。

とにかくこの認識が自分の中に確実に根付いてしまってからは長く苦しんだ。「顔が大きい人のむしろ強み!」や「小顔で損したこと」なんていう旨のブログや記事をたくさん読み漁ったり髪型でごまかそうとしたりおしゃれしたりコミュニケーション能力を上げたり運動したり様々なことに取り組んだが宇宙で唯一の絶対的真実からは逃れられなかった。そう、何をどうしようが「俺の顔はでかい」のだ。受け入れるしかなかった。

見て見ぬ振りをやめた。
自分より巨顔の人間と並んで「こいつよりまし」と相対的観点を取り入れて現実逃避したところで巨顏がいなくなれば「俺の顔はでかい」のだ。
宇宙の絶対的真実を受け入れ、苦しみに浸り切らなけらいけない。そしてそれを始めたところで劇的に自己認識が変わるわけはないと分かってはいた。長い戦いになる直感があった。下手したら一生かかるかも知れない戦い。それでも構わなかった。今までは自分を78点くらいの男だと思っていたのだろう。それを下げるのだ。自己採点が高いから絶望したわけなのだから。自己卑下してバカをやってもいいがそれでは現実逃避とあまり変わらない。自分の正当な点数を知る必要があった。だからまずは自分自身の中にあった良くも悪くも思い込みを捨てた。「本当は小顔な上にイケメンなのでは」という希望的観測も「くそ巨顏ブ男だからしにたい」という悲観的観測も現実逃避につながるのでそれらを捨て、事実のみを受け入れることにした。そう「俺は顔がでかい」のだ。それ以上でもそれ以下でもない。

16年くらいかかった。
16歳の頃に始まり自分の中でなんとなく腑に落ちていることに気づいたのは32歳くらいの頃だ。これといった転機は特にない。そんなものだろう。
今でも顔のでかい人間に生まれてしまった人生を残念に思うこともあるが、両親や先祖を恨むことはなくなった。健康な体に産んでくれて感謝している。
早い話、大分楽になったと言っていいだろう。悩みすぎて悩み疲れて麻痺したのかもしれないが、少なくとも「顔がでかく感じるのは俺と俺以外全ての気のせい。本当は普通。なんなら小顔。たまに間違いの様に写る小顔でかっこよく見える写真こそ真実」のような禍々しい回路は消滅した。先にこちらから「顔でかいんですけど大丈夫ですか?」と仕掛けることで相手に「顔でかきんも。けど気にしてないふりしなきゃ。気づいたの気づかれたらその瞬間にこの顔は絶命してしまう」と気を遣わせなくて済む様になった。

短い前置きになったが、これは昨今のLGBTの問題に通じる部分があるなと感じる。必要以上に気を遣われることが果たして社会的少数派からしたら嬉しいのだろうか。
俺は顔がでかいことをいじられた際に「やめろよでかくないよ」と言われた方がカンに触る。「遠くにいるのに近いんだよ!」といじられた方が嬉しい。変に気を遣われるとこちらも変に気を遣ってしまうし、でかくない前提では生きてないんだよ!実際でかいんだよ!と思ってしまう。
ブスも美人も健常者も障害者も異性愛者も同性愛者も小顔も巨顏も同じいじり方をすることこそが平等なのでは?もちろん本人が嫌がるのであればやめるべきだが。しかしゲイの人がいる場で「気を遣え!ゲイの話題は避けろ!」という提案はむしろ差別だろう。フラットにゲイの話題もそうでない話題も出せばいいしゲイが気持ち悪ければ気持ち悪いで良い気がするけど。納豆食う奴きめえ!けど友達ですなんていうのは数え切れないくらいよくあるケースでしょ。肝心なのは悪意があるかないかではないだろうか。

何故だろう。映画を見ながらずっとこのことを思い出していた。受け入れることを拒否している間は自分を社会的弱者だと思い込んでいたのだろう。単に社会的少数派でしかないのに。

ちなみにティッシュの箱と比べて顔の大きさがどうかという比較が世間では多くされているが、ティッシュの箱など物によってサイズが違うからあまり当てにならない。俺はどのティッシュの箱よりもでかい。
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