阪本嘉一好子

ザーヤンデルードの夜の阪本嘉一好子のレビュー・感想・評価

ザーヤンデルードの夜(2016年製作の映画)
5.0
この映画を見始めたとき、何か衝撃が走った。昔の友達はイランからで国王シャーが追われれ、ホメイニ、イマーム派が中心となってイラン革命が起きた後、政治難民として、米国に亡命したからだ。彼女はその時、テヘラン大学の学生だった。たとえ、民衆の革命であったとしても、亡命先で自由を叫んでいたホメイニを中心にイスラムの国家体制を作り、今までのような服装も着られずブルカで全てを隠す学生時代で、抗議、討論だったと。革命だからね!

イラン革命の話を彼女から聞いただけで、特に興味を持っていなかった。しかし、これを観始めたら、意味がよくわかるので背筋が寒くなった。そして、この人間人類学の大学の教授、モハマッド(Mohammad Alaghmand)の存在は当時のモハセン監督を意味していると思った。監督のイランにおける存在だったと思った。監督はすでに亡命しているが、彼は何度も殺されそうになったといったのを聞いている。

教授が国王シャーのことをImperial Cult 皇室のカルトという。そして、Demigodといういいかたで、ミニ神といってる。学生から、国王を軽蔑してる!と声が上がるが、教授はこれは人間人類学のクラスで、イラン人の文化的見解を勉強しているという。多分、日本で天皇のことをこう呼んだら、反感を持つ学生がいるだろうが、これは日本人の文化的見解だと言われたら人間人類学的にこう見ることもできると納得する人もいるだろう。

この作品は検閲が入っていたので、全映画を観られず、時々、会話なしで人の動きだけだ。観られませんよという表示があるのには驚いた。こんな映画を初めて観た。

監督は自分の命を犠牲にしてまでもこの映画を作りたかったというのがよくわかる。教授が家族の者に話す言葉には真実味があり、察するには、この監督のテーマは人類愛なのだ。

『私は正直者だと。そして、政治活動家ではない。専制主義者でもない。自由主義者でもないと。私の哲学は愛だと。個人個人が他の人を愛することだと。』参った。これは教授のことばだが、監督の哲学なのだ。『I drink coke, therefore I am 』
でも、シャー批判したと言われ彼の家族は災難にあう。

昨日20分だけ鑑賞して書いたことに疑問点を感じた。監督の言いたいことはイランの社会問題の追求ではなかろうか?その解決口は一人一人握っているが、社会の人々なしには解決できないから、個人個人の意識向上/問題意識が大事だといってるのではないか?監督は気づきを与えているのではなかろうか?

父親である教授サイドから見た味方と、看護師の娘から見た目と、また、娘の仕事場の医師から見た目と、患者であって娘に惚れた、歩けない男性の目からと、娘と結婚しなかった男性からの目など、それぞれの見解が違うので書きたいが、長くなりすぎるので、いくつか私の感じたことを書く。

まず、当時の高学歴者のイランの社会とモスリム 社会の弊害である女性の自由意識の欠如についてだけ書きたい。
父親は娘に愛を告白した患者だった男性に会うが、驚いたことにまず、学歴を聞く。その次に、なぜ、足が不自由で車椅子なのか、なぜ自殺未遂をしたかと質問する。これが、父親の知りたいことなのだ。娘にあった男性を探すのが努めなようだ。しかし、事故にあって歩けなくなったのは人を救うためという答えを父親はまるっきり無視するが、この男性を知ろうともしないのだ。自殺した理由も誰も自分を愛してくれないからというのもそうだ。父親は自分も同じで、誰も自分を気遣ってくれなかったと。父親はこの男性と違って積極的に愛を求めて行かないから。そして、父親も同じような経験を味わっているのに、娘のことになると『自分の娘は』という特別意識があるのだ。まあ、確かに、愛は同情ではないという父親の
言葉は重いが。娘が、幸せって、今の状況が幸せなら幸せなんだと心理学者の名前を引用していうが、頷けるね。

女性の自由意識の欠如はイスラム教では長い間の課題になっている。グローバル化の中で閉ざされた世界にいるわけではないので、自ずと自由に生きている女性の話が耳に入ってくると思う。当時はこの娘のように女性の生き方に疑問を持っても、(男の方が自由で、結婚を申し込んだり離婚したり、多妻でもいい。でも、女は理想の男と結婚して幸せな家庭を作る。独身でいたら、悲劇だ。)男と同じ自由を獲得できない。この娘のいうことは監督のイラン社会の問題点だと思うが、この娘がこの問題意識をどう解決するかをみてみたかった。そうでないとただの不平不満のように感じる。

父親は交通事故にあった時、自分の伴侶を助けなかった人々に反感を持ち、人間不信に陥ったが、その後、イラン革命で、負傷者を助けている仲間たちを窓越しに見た。最後に、また交通事故があっても誰も助けないのを見た。彼も、また傍観者の一人で、なにも行動に移さなかったから伴侶を助けなかった人を責められないだろう。