サマセット7

荒野の用心棒のサマセット7のレビュー・感想・評価

荒野の用心棒(1964年製作の映画)
3.5
監督と主演は「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」のセルジオ・レオーネとクリント・イーストウッドのコンビ。

メキシコとアメリカの国境近くの、2人の対立するボスの支配下にあって、殺しが常態化した町。
名も無き男が町を訪れ、2人のボスを共倒れさせることを目論むが…。

マカロニ・ウェスタンの起源にして元祖。
巨匠セルジオ・レオーネと、名優にして名監督、クリント・イーストウッドの最初のヒット作にして、大出世作。
このような歴史的意義から、襟を正して見なければならないような気がするが、それは錯覚。
今作の成り立ちは、完全にB級映画のものである。

今作が黒澤明の名作「用心棒」のストーリーの無断借用作品であることは有名である。
話の筋は、ほぼ用心棒の模写であり、現に黒澤側から訴訟が起こされ、レオーネ側は完全敗北している。
そもそも、アメリカ発祥の西部劇を、血みどろ映画の国のイタリア人が撮影するということ自体、アメリカ人が日本の時代劇を撮ると聞いて感じるようなキワモノ感がある。ラストサムライを思い出そう。
さらに、日本の時代劇の筋を借用し、舞台設定はメキシコ国境、実際の撮影現場はスペイン、主演はアメリカ人、キャストの出身国はイタリア、ドイツ、チリなど多様、スタッフはほぼイタリア人という、多国籍なごった煮感が半端ない。
セルジオ・レオーネは今でこそマカロニ・ウェスタンの巨匠だが、当時は新米監督。
クリント・イーストウッドも、テレビドラマでそこそこ人気が出た程度の33歳の俳優に過ぎなかった。

内容は、「用心棒」そのまま、2つの悪漢集団の間で、無頼の男が立ち回り、共倒れを誘うところにある。
ただし、「用心棒」では悪漢集団がそれぞれ町の有力者の代理戦争を繰り広げていたが、「荒野」の方では有力者の存在を省略し、2つのファミリーの闘争に単純化してしまった。
その結果、筋はシンプルになったが、話の端々に???という疑問が出ることになった。
なぜ、アメリカの保安官がメキシコ国境に?
なぜ、ラモンはマリソルをわざわざ牧場に連れて行った?
なぜ、2つのファミリーは対立していたのか?
などなど。
この辺りの荒っぽさは、いかにもB級作品臭い。

とはいえ、結果的に今作は大ヒットしており、たしかにその価値のある魅力ある作品である。

やはり、「用心棒」の筋書きはエンターテインメントとして非常に優れている。
また、誇張された早撃ちや縄を撃ち抜く精密射撃、ライフルとピストルの対決というケレンあふれるラストバトルなど、西部劇であることを活かしたアクションも楽しい。
ポンチョや鋼の鎧、機関銃、ダイナマイトなどの小道具の使い方も面白い。
いずれも、観客の喜ぶものを提供するという、プロのエンタメ魂が窺える。
惜しくも先日2020年7月6日に亡くなった名匠エンリオ・モリコーネの手による音楽は冴え渡って素晴らしい。
そして何より、クリント・イーストウッドの、従来の西部劇主人公の概念を覆すダーティーヒーローぶり。

クリント・イーストウッドの俳優としての魅力はすでに今作の時点で発揮されている。
一概に正義の味方とは言い難い、世を斜めから見ているかのような皮肉な笑み。
黙ってニコニコしているだけで魅力を放つ軽妙さ。
ただ陽気なだけではない、いるだけで明らかに他の人物とは異なる陰性のカリスマ。
いざコトが起こった際に、視線ひとつでギロリと表現する熱い情念。
ラストバトルにおける立ち姿のカッコよさ。
いずれも、その後の活躍を予見させる。

「用心棒」からの若干の改変部分は、今作独自のテーマと関連するように思う。
「用心棒」では、序盤に三十郎が目にしたのは親元を離れて悪漢の下に走る若者であった。彼はラストの決闘でも登場する重要な人物である。
元締めの情婦なる存在が出てくるのは、中盤過ぎであり、全体としての扱いは比較的小さい。
三十郎が元締めの情婦を助けたのは、どちらかというと、妻を有力者に差し出した夫の情けなさに対する憤りからであった。
彼らとの関連で黒澤明監督が表現したかったのは、従来の家族の結びつきなどの徳や倫理を失った世間の風潮に対する憤りであったように思う。

一方今作では、親元を離れる若者は出てこない。
むしろ冒頭から、名もなき男の目の前で、母親を返してほしいと泣く無垢な子供が悪漢に追われている様が描かれる。
また序盤から敵役ラモンに囚われたその母親がほぼセリフなく、何度も画面に現れ、名もなき男は強く興味を表す。
その後の母子一家に対する男の行動は「用心棒」とほぼ同じだが、そのニュアンスは大いに異なっている。
「用心棒」では情婦とその夫と子の関連は一エピソードに過ぎなかったが、今作では、作品の根幹というべき周到さで描かれているのだ。
母親の名前マリソルも、聖母マリアと類似しており暗示的だ。
これらの描写から、名も無き男が町の紛争に介入した原因は、最初から母子の解放にあったとも解釈できる。
「用心棒」で情婦の解放が当初からの目的と解釈する余地はないことと対照的である。

この辺りの改変は、レオーネ監督の作家性を表しているように思われる。
すなわち、真面目に読み取ろうとすると、今作のテーマは「家族という何より尊いものを、英雄が奪還する」という点にあるといえる。
レオーネ監督の何より守りたい価値が、「家族」にあったことが想像できる。

とはいえ深読みせずに製作経緯を振り返ると、今作の真のテーマは、「クロサワの用心棒を、西部劇にしたらどうなるか!!??思いついたからヤッテミヨー!!!」だろう。
とにかく脳天気でB級的な発想が産んだ作品であることは間違いない。

なお、「用心棒」の三者間の対立、という構造がレオーネ監督に与えた影響の大きさは、後の映画史に輝く名作「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」でも見られることになる。

何はともあれ、クリント・イーストウッドの代表作を辿っていくなら、外せない一作。
日本語吹替え版の声も、良い味を出している。