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犬ヶ島のokomeのレビュー・感想・評価

犬ヶ島(2018年製作の映画)
4.0
「いい子だね」


こういうのも何ですが、ウェス・アンダーソンの作品は、物語が面白いと思ったことはほとんどありません。
語り口が冗長というか、観ている最中、画面の中で何が起こっているのか不思議なほど興味が湧かなくて、それを無理に集中して読み取ろうとすると途端に眠たくなってしまう。
じゃあ嫌いかと言えば、これも不思議なことにむしろ好きな部類で、映画館でかかっていると気になってしまってほとんど観に行ってます。

今回この犬ヶ島を観て、改めて自分はウェス・アンダーソン監督作品の何がそんなに好きなのか考えてみましたが、それはたぶん「ミニチュア感」だろうと思います。

カラフルだけど少しくすんだ、レトロで可愛らしい建物や小物で画面を埋め尽くして、それで場面ごとのテーマカラーを演出する美術の妙技。
その中をせこせこと動き回るキャラクター。皆どこか抜けた雰囲気で、愛嬌を感じる役者たち。名だたるスターが大勢、端役でも楽しげに演技している様子に、どことなく三谷幸喜作品を連想するのは自分だけでしょうか。
そして、彼らを捉えるカメラの撮影演出も独特です。
ドリーを使って長尺で映される、横スクロールのアクションゲームのような移動シーンや、パノラマ撮影を行っているような視界の旋回。
1人の人物の顔にグッと寄ったその後方で、数人が全身映るほど小さく、一列に並んで配置されてる(伝わる?)といった感じの、極端に遠近を強調したような絵作り。
その全てが作り物めいていて、まるでドールハウスの中を覗いているような微笑ましさを感じます。
実際、建物の壁一面を取っ払って、外観と中の様子を同時に映すという、まさにドールハウスそのものな演出もたまに見られるので、多少は意識しているのかもしれません。

だから、彼の作品はどれを観てもほのぼのとした気持ちになる。
たとえ、劇中で喧嘩や争いが起こっても、人が殺されたってその気持ちは変わりません。
良い意味で嘘っぽく冗談めいていて、何だか肩の力が抜けてしまうのです。
それを「物語に入り込めない」と悪く言う事も出来るけれど、これはこれで良いものなのだと思います。
個人的には、本当は映画館で浸るよりも、日常生活の中でTVで流しっぱなしにして、ふと目を向けた時に「いつでも何だか可愛らしいものが映っている」という幸せを提供してくれる作品群だと思ってます。
監督の意図なんかはまるで無視した言い草ですけど。

だから、今作も相変わらずウェス・アンダーソンの素敵な作品。
それ以上でも以下でもありません。
ただちょっと驚いたのが、今回はアニメーションなのに「相変わらず」という印象が全く変わらなかったこと。いや、ミニチュア感が魅力なのだから、ストップモーションアニメとの親和性はバツグンなのは当たり前だと言いたいところなんですが、それにしてもいつも通りが過ぎる気がします。
たぶん唯一観たことがない――というか、同監督の作品だと知らなかった『ファンタスティック Mr.FOX』がどんな感じなのか判らないですが、美術・カメラワークだけに留まらず、役者の演技(人形の動き)まで「ウェス・アンダーソン節」とでも言うようなテンポ・呼吸を完璧にトレースしているのです。
人形なのに、もっと言えば犬なのに、生身のエドワード・ノートンやスカーレット・ヨハンソンが演じているのとまるで遜色ない。むしろ、風になびいたり、水に濡れて萎れたりといった、犬だからこその体毛の表現が加わる事で、その演技がもう一段階高められているような気すらします。
つい見入ってしまって、ふとした瞬間に「そういえば、これコマ撮りアニメだった」と思い出して少しぞっとしてしまうくらいの完成度でした。


個人的にはあまり重要視していないとはいえ、物語についてまるで触れないのもどうかと思うので1点だけ。
自分が最も興味深いと思ったのは、明確に描かれる「言語による分断」です。
作中、主人公アタリ少年が属するメガ崎市の人々は日本語を、彼らから迫害を受ける犬たちは英語を話します。ただし、この犬の言葉は便宜上英語に翻訳しているだけであって、本来は「犬語」と言うべき未知の言語なのだという注釈が付きます。
そして、メガ崎市の人間と犬をめぐる状況は、TVニュースのアナウンサーを通して英語に翻訳されて伝えられます。伝えられる? 誰に向けて?
それはもちろん、画面のこちら側、この映画の観客に向けて。

メガ崎市の人間は犬の言葉を理解出来ないし、犬も人間の言葉が分からない。
人間によって遺伝子に刷り込まれた命令(コマンド)に特定の反射をするだけ。
そして、画面のこちら側の観客も、犬の言葉はハリウッドスターにアフレコさせているし、メガ崎市の人たちの言葉(日本語)もアナウンサーに翻訳してもらわなければ分からない。
アナウンサーが介入しない場面では、英語字幕すら出ないという徹底ぶり。
事程左様に、3者が3者とも、言葉によるコミュニケーション、相互理解が非常に難しい立ち位置に置かれているのです。
ただ、自分たち日本の観客はメガ崎市の言葉が分かるし、英語には字幕が付けられてしまっているので、この作品本来が意図している「言葉が通じない」もどかしさを正確に受け取れないのは、少し勿体ないですね。

もどかしさの先にあるもの、言葉を介せないからこそ際立つのが、「心が通じる」事の素晴らしさ。思いやったり、尊重したりという気持ちが、言外のコミュニケーションによって相手に伝わる。少年と犬の触れ合いによって描かれるその温かさが、普遍的な感動となって皆の心を打つのでしょう。

そしてその物語が、「虐げられていた犬が、人間から自由を奪還する」というような安易な結末に至らなかったのも、とても良かったと思います。
メガ崎市市長たちの悪事は暴かれますが、相変わらず犬は人間のペットで、従順なまま。
でも、人間は彼らに対して良い飼い主であろうと努力する事で、それに報いようとします。
どんな過去があったにせよ、これまでの関係性の全ては否定せず、良い部分を未来に向けて育んで行くというメッセージに、とても温かいものを感じる事が出来ました。


……あれ?
物語に興味が無いとか言っておいて、こうやって言葉にするとすごくいい話じゃないか。
やっぱり、言葉も捨てたものじゃないですね。
リスペクト!
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