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ロケットマンのokomeのレビュー・感想・評価

ロケットマン(2019年製作の映画)
3.0
「いつになったら君は降りてくる?」


レジナルド・ドワイト(レジー)という内気で自己評価の低い一人の男が、自分の本性を押し殺して全く正反対のキャラクターを作り上げた。
そのキャラクターの名前はエルトン・ジョン。
突飛なパフォーマンス、奇抜な衣装に演出された彼は見事観客の心を掴み、熱狂的なファンを生む事に成功した。
しかし、エルトンがウケればウケるほど、作り手であるレジーは、やはり本来の自分では居場所なんてどこにも無いのだと思い込み、ひたすら虚飾に逃げる。
散財やアルコール、ドラッグに依ってレジーという存在を必死にかき消してエルトンになりきるが、心と体は確実に傷ついていく。
そうして遂に限界の時はやってくる。
果たして彼は立ち直る事が出来るのか。
そして、ありのままの自分を受け入れる事が出来るのか――。


ざっくりストーリーを要約するとこんな感じで、つまりはいつもの「ミュージシャン −栄光と挫折、そして再生−」映画でした。
ほんとミュージシャンって、まるでテンプレートが存在するみたいに皆同じ行動をするんだな……。
当人にとっては一大事なんだろうけど、ここまでどれも同じ展開ばかり、その上あたかも美談のように見せられるとなんだかなぁと思ってしまう。
それでも今作は、そのテンプレートがミュージカル仕立てで語られているという演出の面白さ一点に於いて、最後まで白けずに観られました。
劇中で使われる本人の楽曲が、割とストレートに心情を吐露する歌詞ばかりなので演出と相性が抜群に良かったのでしょう。
それに、こんな風に自分の言いたい事を代弁するような歌詞を書いてくれる人が身近にいたらそりゃ惚れちゃうよねと、レジーの心情にぐっと迫れる手助けになっているのも面白かった。

ただ、今回もそうでしたが、この手の作品を観ていてつい考えてしまう事があります。
それは、例え虚像であったとしても、自分が作ったものを他人が受け入れてくれるのは嬉しい事じゃないの? ということ。
確かに、他人が思い描く自分と本来の姿がかけ離れてしまって戸惑う気持ちは理解出来ます。ただ普段生活するだけでも、僕らは誰しも大なり小なり仮面を被るものだから。
職場、友人、家族。
相対する人物によって接し方はそれぞれ違うし、場所によっても立ち振る舞いは変化します。時にはそれに疲れてしまう事だってある。
でも、じゃあなぜ接し方を変えるのか、なぜ自分自身を演じるのかと考えれば、そこにある感情は「自分を偽る」なんてネガティブなものだけでは決してない。必ず「他人と仲良くやりたい」という欲求があるはずです。
結果、それが上手くいって相手が笑ってくれているのに、わざわざ「こんなの本当の自分じゃない!」って訴える必要ある?

今作のレジーや、例えばよく引き合いに出される『ボヘミアン・ラプソティ』のフレディは、一番受け入れて欲しい相手に気持ちが届かなかったという経緯が描かれます。
それはもちろんお気の毒だと思うけれど、だからと言って「笑ってパフォーマンスをしていたあの時、本当はこんなに辛かったんだよ」と暴露されるのは、やっぱり嫌だ。
それって要は、確かに彼らを愛しているファンに対して恨み言を言っているのと同義じゃないかと思えてしまうのです。

こっちの気も知らないで。
いい気なもんだな。

苦境を乗り越えてくれた事を素直に祝福したいのに、そうやって拒絶されてるみたいに感じてしまうと言うか。
作品、どころかこの自伝ジャンル自体を否定するようですが、やっぱり、嘘をつくなら最後の最後までつき通してくれる方が粋だよなぁなんて、すごく身勝手な事を思います。
まぁそもそも、『キングスマン』で大暴れしていた彼をタロン・エガートンが演じてるというのが面白すぎて劇場に行ったお前なんて、本当のファンじゃねーよと言われればそれまでなんですが。
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