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シェイプ・オブ・ウォーターのnoteのネタバレレビュー・内容・結末

3.7

このレビューはネタバレを含みます

1962年、アメリカ。口の利けない孤独な女性イライザが、政府の極秘研究所で掃除婦として働いていた。ある日彼女は、研究所の水槽に閉じ込められていた不思議な生物と出会う。たちまち「彼」に心奪われ、人目を忍んで通うようになる…。

「パシフィック・リム」や「ヘル・ボーイ」シリーズなど、監督作品で怪獣やモンスターへのオタクな偏愛を見せてきた鬼才ギレルモ・デル・トロ監督作品。
「半魚人と中年女性のラブストーリー」という前情報しか聞かなかったが、「あぁ、なるほど彼らしい…。きっと人魚姫みたいな人間と結ばれぬ哀しきモンスターを描くのだろう」とスルーしていたが、本作がまさかアカデミー作品賞を取るとは思わなかった。

見てみると、人間と半魚人の種族を超えた愛を主軸に、何と分かりやすい隠喩によるマイノリティ差別への批判の嵐。
主要な登場人物はほぼ差別される側であり、描かれるのは蔑まれるマイノリティへの愛である。
そして囚われの半魚人は果たして逃げることが出来るのか?というテンポ良いサスペンスのオマケ付き。
ファンタジーテイストなラブストーリーの佳作である。

イライザの務める研究所にある日、南米アマゾンで見つかった半魚人が運び込まれる。
米ソ冷戦中の宇宙開発競争において、その異形な存在は宇宙に人を送り込むための有益な何かがあるのではないかと、政府は睨んでいる。
研究者は半魚人を大事な研究サンプルとして扱おうとするが、半魚人の管理を任された軍人あがりのストックランド所長は彼を家畜のようにぞんざいに扱い、暴力をも振るう。

明らかに半魚人は異人種のメタファー。
見た目が違う、文化が違う、言葉が通じない…、その極端な例だ。(生態すら違うが)
人の形をしているこの生物を差別するならば、貴方も人を差別する(または動物虐待の)可能性がありますよ、と言われているかのようだ。

やがて、上層部のいうがままに研究所では半魚人を解剖することが決定。
半魚人に一目見た時から惹かれていたイライザは彼を研究所から逃すことを決意し、協力者と共にそれを実行に移す。
出会った時に卵(エサ)を与える辺り、最初は動物に触れるような好奇心。
自分と同じ物言わぬ存在である同情からか?
言葉ではなく態度や行動で表す半魚人の愛情表現に次第にイライザは惹かれていく。
「彼は何も言わなくとも(言葉で理解しようとしなくても)ありのままの私を愛してくれる」と語るイライザ。

隣りに住む友人の老画家ジャイルズ、同僚の黒人女性ゼルダと、解剖反対派のホフステトラー博士の協力もあって、研究所から半魚人を救い出すことに成功し、イライザは自宅のバスタブに匿うことに。
このままプラトニックな愛を貫くのか?と思いきや、意外や意外、イライザは半魚人と肉体関係を持つ。

冒頭、イライザが入浴中に自慰行為するカットが一瞬ある。
そして、イライザが自ら裸となってバスタブで半魚人と性行為に及ぶ姿は「女性だって性欲はある。女性にロマンチックな側面ばかりを求めるのは型にはめたがる男の強制的な考えであり女性差別だ」と言わんばかりだ。
言葉で愛を確かめられないのだから、動物の求愛行動として、身体に触れるしかないと捉えた方が良いのだが。

管理を任されていたストリックランドは責任を追求され、血相を変えて半魚人の探索に乗り出す。
自宅に匿っている半魚人と愛を深めるイライザ。
しかしバスタブは半魚人にとって窮屈で、彼は次第に衰弱していき、イライザは半魚人を海に帰すことを決意する。
ある雨の日、イライザは桟橋で半魚人に別れを告げる。
しかし、そこにストリックランドが現れ、半魚人とイライザを銃で撃ち抜く。

半魚人は自身の怪我を神秘的な力で直した後、ストリックランドの首を掻き切り、逆襲。
その後、イライザを抱き抱えた半魚人は桟橋から川へと飛び込み、水中でイライザの傷を癒す。
イライザの首の傷跡はエラとなり、水中で息を吹き返すイライザ。
水中で抱き合う2人を捉え、ハッピーエンドで映画は終わる。

60年代冷戦下のアメリカという時代設定が良い。
黒人や同性愛者、そして障がい者(さらには共産主義者も)など、マイノリティが虐げられていた当時の社会情勢を反映させたキャラクター設定で物語がつづられるのが上手いのである。

汚物の処理は汚物に任せておけと言わんばかりの黒人の同僚ゼルダの扱い。
イライザのような障がい者雇用に対しても同じ扱いだ。
掃除など女にやらせておけば良いという女性蔑視も見られる。
その鬱憤を愚痴り倒すゼルダ役のオクタヴィア・スペンサーのコメディ・リリーフが笑える。
イライザの隣人で、写真に仕事を奪われるイラストレーターのジャイルズは外出時にカツラを被り、ルッキズムの差別を表す。
なぜ不味いパイを売るダイナーに足繁く通っているのかと思えば、若いダイナーのウエイターに恋をしている同性愛者だったというサプライズ。
劇中、それに気づいたウエイターが同性愛差別と空いている席に座ろうとする黒人への差別を露わにする辺り、ファンタジーだけでない現実の厳しさを見せるのも上手い。
この辺のマイノリティへ向けられた差別批判がアカデミー受賞の理由だろう。
トランプ大統領政権下の白人至上主義への反発かもしれないが。
悪役のストリックランドはモロに白人至上主義である。
その腐った心根を、半魚人に切り取られてくっつけた指が腐っていく様で、身も心も腐ってゆくのを見せつけた演出も面白い。

ロシアのスパイであるホフステトラー博士が「アメリカには学ぶことが多い」と言うセリフには「移民と自由の国・アメリカ万歳」が匂うのが、少々媚びを売っているかのようで難点だが。

最大の難点は、成就してしまうイライザと半魚人の恋だろう。
半魚人の造形があまりにリアルなため、異人種のメタファーを通り越して「動物」に見える。
愛玩動物である猫を食べてしまう描写もあるからだ。
知能は高くても所詮は「動物」、生活環境も食文化も違い、一緒に暮らせる訳がないと思ってしまう。
性行為がモラル的にタブーである獸姦に見えてしまったのは私だけではないはずだ。

例えば「美女と野獣」や「人魚姫」のように「異形とのラブストーリー」という作品は過去にもあった。
これらの作品で共通するのは「異形だから恋愛できない葛藤」である。
「野獣」だから、「人魚」だから人間とは恋に落ちることができないというジレンマと、相手が人間だったなら幸せになれるのに…という恋が叶わぬ切なさだ。

過去のそれらの物語は異形の者が人間になることで恋愛が成就する。
それをアッサリと乗り越えて「ありのままの姿」で成就するイライザと半魚人の恋愛。
これもルッキズム差別批判なのだろうが、個人的にはギレルモ・デル・トロ監督が愛してきた哀しきモンスターへのプレゼントに見える。

差別と偏見を乗り越え、カタルシスのあるラブストーリー&サスペンスとして大変面白いのだが、タブーまで乗り越える恋愛は少々やり過ぎではないか?と思えてしまう。
やはり、そこが「ファンタジー」なのである。
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