「その程度の絶望で足を止めちゃいけない」と僕を突つくのは他ならぬ僕自身で、そうやって自分を追い詰めるとき、僕の世界には僕しか居ない。僕しか居ない世界で、その唯一の僕が足を止めた僕のことを認めないので、僕はまたどうしようもない気持ちになってしまう。足を止める理由しか無い気がしてくる。
別にポエティックに苦悩を語りたいわけではないです、額面通りの意味でそう思っているし、現代、多くの人がそう思って沈んでいっている、とも思う。
ラストカットは、そんな思いに対する特効薬かと思った。天才かと思ったし、涙が飛び出すほど優しかった。優しかったなあ。1カット、1パンに、あんなに意味を持たせられるなんて。
おそらく今年最後の劇場鑑賞で、素晴らしい映画を観られた。ありがたい。もう一度観たい。
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車で暮らす男、アスペルガーの少年、インコを飼う女の話。インコを飼う女の携帯電話には、見知らぬ「ジョニー」に宛てた間違い電話がかかってきている。
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ネタバレ
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この映画は、当然のように説明をしない。誰が何の人で、何があったのか、ほとんど説明をしない。結局、彼らに何があったのか、ほとんど何もわからない。(頭の、電車のシーンからアパートの前のシーンで、「この映画は説明しない」ことだけは説明していた気がする。) 彼らが「止まる」「止まってる」ことに対して、それか正当か不当かもわからない。それがすごく良い。僕になんか、判断させない。止まって良いか悪いか、正当か不当かは、ただただ彼らが決めることだと思わされる。ひいては、それは僕自身にも。
鳥は飛び続けるけど、ある一瞬に於いては止まってる。次の一瞬も、その一瞬に於いては止まっている。ということは、鳥は、飛び続けているし、止まり続けている。
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ジョニーへの電話は、『「自分だけの世界」の外からの呼びかけの象徴』なのではと思う。僕が僕のことを考えているとき、そんな僕のことを気にかけているかもしれない誰かの存在にはまったく意識はいかない。耳にも入らない。ジョニーが誰で、何があったか知らないけど、でもジョニーは求められている。様々な人から電話がかかって、「ジョニーを出して」と口を揃えている。
劇中では、うるさいくらいに携帯電話の各種着信音が鳴っていた。
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車がエンストしたラストカット。また止まった車をなんとかしようとみんなは四苦八苦して、カメラはゆっくりパンをする。入り組んだ長い高速には、数えきれない数の車が走っていて、その車の中には人間が詰まっている。みんなに人生がある。当たり前のように走っていて、すこし詰まって止まったりもしてる。
あのゆっくりとしたパンは、「そして、あなた方も」と言っているような気がした。気のせいかしら。気のせいでもいい。目を向けられた気がして、優しさを芯から感じられた。優しかった。たくさん人間がいて、みんなそうだっぽいことが、励ましになっていた。
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大したことが起きない、何も語らない映画なのに、なんでか退屈知らずで、逐一じんわりしていた。「映像が綺麗」なんて言葉で片付けていいものなのだろうか。
・無言のドライブ開始。シートベルトをしめることで伝える。走り出したあとの、正面の2Sの魅力。
・セブンイレブンの前の語り。おっさんの方は、ほろよいを飲んでいた。
・逃げた鳥を追う。唯一の3人の共同作業、だったような。違ったっけ?幸せの、なのかしら。鳥は。
・歩道橋を走るふたりのシーンは、歴代の「走る名シーン」に加えてもいいのでは。
・アスペルガーの彼の部屋の入り口は不思議だ。クローゼットの先が部屋。電飾まみれで、窓を開けるとキッチン。
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最近心を揺さぶられた、「(それでも)貴方なら生き残れるわ」という言葉を思い出した。僕らは生き残れると思う。