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アンダルシアの犬のkyのネタバレレビュー・内容・結末

アンダルシアの犬(1928年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

無知な私見と超個人的な話を失礼いたします。

まず学生時代シュルレアリスムについて無学なので、無意識なイメージetc.を作品として意識と無意識の矛盾を肯定する意識wそれは歴とした有意識w

ぐらいにしかアホだったので思ってなかったし、そこで学習は止まったけど、今日、そー言えばその講義の講師美人やったなーと耽る瞬間が"無意識"にあったので、美術形態ではない、無意識と意識の矛盾を肯定する思想運動とやらを勉強がてら大人になった今見返してみよーと思いました。

結論。
この映画が凄く貴重な経験を与えてくれました。

まずは率直な感想は、
すげー!だってダリが見た夢をダリ本人が再現してるんだぜ!笑
でした笑

以下超個人的な解釈と雑談。

かいつまんで言えば、フロイトの無意識の発見に賛同した詩人、芸術家達の運動(マルクス主義…と同じ脈流…ダリは速攻で袂を分つが…後述)を当時映画にした、それもブニュエルとダリの夢の断片的なイメージの連続。それを現代に観れる事の違和感?みたいな物があった。

そして、ユングの心理学(めっちゃ浅く齧った)に何か興味があった学生時代の自分に対して、あぁもっと自分の意識を大切に本当に見つめていたらな。と思わされた。

まず、意識と無意識の対立は自分の中でも今でも賛否両論。でもあんだけユングの"影"が気になっていたのは自分の内面への言い訳に過ぎなかった。のかな。

今現在ありのままフロイトの無意識と意識の対立。そして無意識は個人の持つ領域。を受け入れる事がすんなりできたのは、もはや色々経験して、歳を重ねた自分が意識して視ている現実が、既にもう夢同様断片的な記憶しか羅列出来ていない事自体無意識だからだと気付いた。

俯瞰的に見れば自分の今日の出来事でさえも、振り返れば無意識が大幅を占めてる気がする。
いつものようにスーパーで無意識にカゴとカートを取っていつものように無意識にアボカド売り場へまず行く。その際すれ違った、おばさんが大学の美人講師に似てた!笑
まさにそう耽った瞬間、頭の中に無意識に講義の内容が浮かんだ。
なんだっけー、って帰りの車の中で意識的に美人講師が言ってたシュルレアリスムってワードだけ思い出して、今日この映画に辿り着いた!笑
無意識と意識の鬩ぎ合い。
偶然にも何の脈略もないこの映画のストーリーと似てた部分があった。笑
ん?集合的無意識な可能性はやっぱある?
は、冗談です。

現代において、イメージは氾濫してこの目に無意識にも意識的にも映りますし、映らせ過ぎたりもします。

そこで観たこのアンダルシアの犬という無意識と意識の矛盾を肯定する思想運動に奮起した作家が作った作品。
この映画のイメージの断片の連続に隠れた思想運動には大義がある。まず多く言われてるけど無意識を意識する視点。それって意識的に見ても難しくないかな?
自分は何故、美人講師を思い出したか。それは視覚的に記憶に刻まれてたから?美人だと思ってたから?なぜ美人と思った理由は?考え出したらキリがない。
そんなイメージの洪水をブニュエルとダリは超現実的な事(リビドーに近い)をオートマティスムに表現する事で"人間的な自由"を表現を超えて炸裂させた。この映画で。

時代背景を照らし合わせるとすんなりと彼等が行った芸術の思想運動が純粋な唯心論の末、当時から芸術を死に物狂いで追求し、人としての生活の向上なんて代物なんかではない、人間らしさを主張している事が窺えた。

後述 
違和感の正体は…
マルクス主義と反りが合わなかった事は、マルクス主義の結末(真のマルクス主義では無い)という歴史が物語っていて、現代も尚イメージが制限される(将又描き変えられる)社会統制がある中、一方、ダリが支持したモノとは異なるが、多くの民主的な資本主義の消費社会では、表現の自由には、つまりイメージの濁流は責任力があるでしょうか?

超現実的に自分という個を見つめ、見つめ続け、権威ある個性を爆発させる事ができてるでしょうか。安易に表現の自由だけを主張して、己を顧みずにただ小手先の技術で、テクノロジーで、毎日無駄なイメージを意識的に人々の無意識に植え付けるモノで溢れ返ってませんか?
アートが汎用される一方、リテラシーが高ければ気にもならないだろうけど、ってそのブルジョワ思考が更に、芸術家の個性を霞ませる。ダリも「狂人と私の違いがひとつある。狂人は自分が正気であると思っているが、私は、おかしいことを分かっている。」って言ったそうです。

でも自分も答えがわかりません。ただ出来る事は無意識に気付き、意識と無意識の対立さえも見つめる視点を持ち続ける事。たとえこの運動思想が今淘汰されているにせよ、時代の一部分に過ぎなかったにせよ、今でも社会の向上に対して出来る事があると思いました。

それはつまり自分が感じた事をより深く追求して、考え抜く事。一見して矛盾してますが、それが無意識のイメージ(人間的な表現の在り方)に近い何かを生み出す可能性だと考えました。それは明日誰かに話す一言かもしれません。

追伸この映画のレビューの内容が酷い、画だけ観て分からなかったら、考えよ!笑調べよ!ちゃんとしたソースで!笑わかるまで!茶化すだけなら誰でも出来る!なぜこんな映画が作られたか、とか発想に至ろう!
でもまずダリの夢を簡易的に観れる現代に感謝。
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