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15時17分、パリ行きのslowのネタバレレビュー・内容・結末

15時17分、パリ行き(2018年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

昨今の実話を元にした系映画の多さに少しうんざり。その流れはイーストウッドが作ったのではないかと思うほどで、彼はすっかりそれにどハマりしている様子。彼の作品は好きだけれど、前作からは鑑賞しようという気にもなれずにいた。今作もそこまで楽しみにしていたというわけではなく、巡り合わせというか、何かしらの力が働いて観ることになった。それは、この映画で描かれた見えない力と似たものだったのかもしれない。

これは映画と言えるのか。映画革命のような。もはや逸脱してしまっているような。湧き上がったものは、映画に対してのものではない気がする。と言うのが素直な感想。A・G・イニャリトゥやドゥニ・ヴィルヌーヴなら、主人公達とテロリストの人生の断片を交互に見せながら、全てをクライマックスで収束させる構成にしそうだけれど、イーストウッドは作品を盛り上げることよりも直感勝負。勝負したと言えば聞こえはいい。もう映画を撮ることがライフワークになっていてノリで撮った一本。そんな感じすらしてくる。しかし、このような実験的な作品は彼だからこそ挑戦できたし、その経験値と身軽さ無くしては生まれなかっただろうと思う。

映画のメッセージが、頑張りは報われるとか、ましてやアメリカ的なあれであって欲しくない。別に夢やその努力があの日あの場所に彼らを導き還ったわけでもないと思う。彼らが偶然に居合わせたことを奇跡と言ってしまうのは安易でドラマチックだけれど、凄く性能の良い銃がまさかの不発だったり、テロリストに立ち向かったのが落ちこぼれ扱いされていた軍人だったり、確率や統計が導き出した数字ではありえないとされることが、時としてひとつの連続の中で起こる事があるらしい。これらは如何にも偶然や奇跡を意識させた出来事だった。こんなこと言うと反感を買うだろうけれど、全ては必然だったのではないかと途中から思ってしまった、というのが本音。それがどういうことか、おわかりだろうか?でもそれを言い出すと映画を全否定することになるのでやめておく。
これまでもこれからも、人生に無駄などない。私たちが何気なく過ごす日々にも、イーストウッドがこの映画を作ったことにも。必ず意味がある。
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