左衛門

ペンギン・ハイウェイの左衛門のレビュー・感想・評価

ペンギン・ハイウェイ(2018年製作の映画)
1.1
オウム真理教による地下鉄サリン事件を真っ先に思い出した。
2時間、ひたすらに苦痛だった。正直この手のアニメ映画に、この手のレビューを繰り返すのは最後にしたい。
現代日本の大人の精神的な貧困をまざまざと見せつけられた。と同時に、子供たちへの危惧と責任をより一層強く感じることになった。百年後の人達に、今の社会を理解してもらうには打って付けだと思う。その点で、残すべき、遺産であると思う。そういう歴史的な価値はある。
大人になりきれない大人達が、アニメの子供の姿を借りて、理想の自分を描いてるように感じられた。鑑賞後まず思ったのは、これは一体どの年代の、誰に向けて作られた映画なのかという疑問だ。
これから大人になる子供たちに向けた作品のような、広がりのあるドラマはなかった。大人たちが胸の内を振り返るきっかけを与えるような感動もなかった。ただひたすらに感じたのは、すごいでしょ、お姉さん褒めてよ、僕を見てよ、賞ちょうだいよ、と、喋る子供の絵に代弁させる子供大人の存在だ。
だから当然発想も貧しい。これができたから、えらい。あれを知っているから、賢い。あと何日で、大人になる。遺伝子がいいから、美人になる、完璧になる。チェスをする。相対性理論に興味を持つ。思考の檻と閉塞を強く感じた。
こういった、こうすればああなる、ペニーガムな思考に伴う自閉的な精神から、成長を通じて解放される物語なら、よいものになったかもしれない。が、そんなことはなかった。あくまでも自分の殻にこもり続け、理想を抱きしめながら終わる。冒頭でも書いたが、ここにオウム真理教による一連の犯罪に加担した、当時のエリートたちの姿を見る。長くなるし下らないからもうこれについては書かない。
手段と目的の逆転が、こうも見事に描かれた作品も、まあ、少ないだろう。いや嘘ついた、ココ最近のアニメ映画はこんなのばっかりか。これは僕の偏見であってほしい。
冒頭から連発される頭がいいという言葉は、様々な意味で害しかもたらさないし、この映画の表面に浮く油のようなコンプレックスを表している気がした。こんな幼稚な動機のために、相対的に頭が悪い、という言葉をこの作品を鑑賞する子供たちに与えるわけだが、そこに責任を持つつもりはあるのかと問いたい。
頭がいいから、才能があるから、〜できる。やってもいないのに、できた気になる。できる気になる。その小さなズレの蓄積が、人間関係に亀裂を入れ、いつまで経っても大人になれない、社会的に孤立した大人を産む。
存在するのは、がんばった人間と、がんばらなかった人間。それだけで、やる前からなんでも出来る魔法使いみたいな人間はいない。やろうとおもえばいつだってできる、は、できないのと一緒なんだって。
いい加減に気づいて、目を覚ませ。

歴史的価値で0.1プラス。もうしばらくは誰に勧められても日本のアニメ映画は見たくない。食傷。1.1点🐧
左衛門

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