大杉漣さん自身がプロデュースした遺作ということで見て参りました。
冒頭、死刑囚に関する説明テロップ。
”死刑確定囚は、
刑務所ではなく拘置所に収容され、
衣服その他、比較的自由、
労働も免除、刑の執行までを過ごす”
教誨とは、”教え諭すこと”
教誨師の建前上の定義は、
”受刑者に対して、道徳心の育成、心の救済につとめ、彼らが改心できるよう導く人。わが国では、主に諸宗教の聖職者がボランティアでその任にあたる”
でも、当然のことながら、死刑囚にも色々なタイプの人がいて、なかなかこんな建前通りにはいかない。
佐伯(大杉漣)と6人の死刑囚との会話劇でお話が進むので、会話に入り込めないと退屈と感じてしまうかも。
佐伯は牧師ですから、会話のベースにもキリスト教の教えがあります。
でも、教誨師は、ゴリゴリの原理主義的な聖職者では対応は難しい。相手によって柔軟な対応が必要です。
佐伯も、教誨師としてはまだ経験も浅いようで、時に少し感情的になったりする。
佐伯が牧師となった背景にも、自身の過去が関連していた。
(以下、ネタバレ)
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6人の死刑囚の話は、各人各様。
それぞれに背負った人生がある。
佐伯との会話からは、死刑囚となった犯罪がどういうものだったのか?よく分からない人もいます。
死刑囚として刑の執行を待つという特殊な状況で過ごすので、何かに縋りたいという人や精神的な救いを求める人が出てくるのも自然。
教誨師との個人教誨を希望するのは、各人の自由。その理由も様々。
暇潰しという者もいれば、とにかく誰かに自分の話を聞いてほしい者、精神的な癒しを求める者、、、でも、言葉には出していない裏の気持ちがある人もいるので言葉をそのまま鵜呑みには出来ない。そんな雰囲気は会話から滲みでてくる。
そんな色んな人たちとの会話は、教誨師自身の過去や本質もあらわにしていきます。
終盤、ある死刑囚の刑が執行される場面があります。
それまでの佐伯との会話での態度と刑執行直前の雰囲気が全く異なっていて印象的なシーンでした。
漣さんと死刑囚を演じたそれぞれの役者さんの演技には、引き込まれるものがありました。
遺作が、死刑囚と教誨師のやりとりを描いた本作だったのは、何かの巡り合わせでしょうか。自身でプロデュースに関わっているので、この作品を世に送り出したいという想いも強かったのだと思います。
無事完成して、その作品を見ることができたことに感謝。